空洞だった胸がいっぱいになる。

伊藤理佐さんの「おいピータン‼」がとにかく大好きなのですが、11/10号「Kiss」での「おいピータン‼」がほんとに、よかった。

話としては、駅前にある焼き鳥屋さんの閉店を、大森さんと渡辺さんが残念がる、という、まあ、一言でいってしまえばよくある話なのですが。大事だったお店がなくなってしまう、という話は、ほんとに沁みる。僕には下北沢に好きなカフェが2つあったのですが、2つとも、もうありません。西口のチクテカフェと、一番街のカフェ・オーディネール。
ピータンでは最後、件の焼き鳥屋さんと思しきお店が登場しているDVDを観て懐かしむのですが、チクテカフェは、果たして映像が残っているのかどうかわかりません。でも、オーディネールは確か、山田英治監督「春眠り世田谷」に登場していたはず。2階のあのソファーの席が出ていたはず。今度観てみよう。

園子温監督が「希望の国」を撮ったときに、
「“情報”を記録するのではなく、“情緒”を描きたかった」
と言っていました。
情報を記録するのではなく、情緒を。それが芸術の役割だと。
そう、僕たちは、大切なことを、たとえば好きだったお店のことを、情報として記録してなんていない。そこでのなんでもない、特に意味もないような情景、雨の日の他愛のないおしゃべりや、夕方に本を読みながらカフェオレとスコーンを食べたことだとかを、情緒として記憶している。僕には情緒を描く才能はどうもなさそうなので、頑張って記憶しておくしかない。忘れないように。

あ、園子温監督といえば、「愛のむきだし」のエンディングテーマ、ゆらゆら帝国の「空洞です」が僕はとても大好きで、映画館を出たその足で、「空洞です」が収録されているアルバムを買いにいったことを憶えています。「Hemisphere vol.2」にも書きましたが。
「空洞です」の2番の歌詞(今の歌も、1番、2番て数えるのかな?)はざっくり言うと、
「意味を求めるあまり無意味なものがなくて、町には甘いムードがないよ、ムードがいちばん大事なのに」って感じなのですが、この「本来無意味な存在であるムード」こそがまさに、カフェ。
そもそもカフェなんてものは、本当に無意味なものです。なくてもいいもの。でも、その「なくてもいいもの」が町にあれば、甘いムードが出るんです。カフェには、情報として記録されるような意味なんてないから、情緒として記憶しておかないと、あの頃の町のムードなんて、みんな忘れちゃうね。僕らのことも忘れちゃうね。

みんなに忘れられてしまうのはとても寂しいので、nicolasがなくなる前に(いや、そんなすぐにはなくならないよ。たぶん。)誰かnicolasを映像に残してください。映画のワンシーンのような映像を、情緒として描いてください。
それは、たとえばこんなのがいいな。黒にピンクの花模様の洋服を着た女性が、今日まさに彼と別れるところで、彼のほうは「ねえ、最後にあの店にもう一度だけ行こうよ。で、何もなかったみたいに秘密の話でもしようよ」なんて言ってるのですが、彼女は「もうアンタの顔も見たくないし、そんなセンチメンタルな女々しいこと言ってんじゃねえよ。これだから男は!」とうんざりしている、ってシーンがいいです。

でも、やっぱり、ベタだけど、
「記録よりも記憶に残る」店、
ってのがいいかもしれない。

これから先も、みなさんにたくさん記憶する猶予を与えていくことができたらいいな、と思っていますので、よろしくお願いします。それはそれは憶えきれないぐらい、たくさん。