この先
nicolas14周年です。
ほんとうにありがとうございます。
この先、とりとめのない長文が続きますので、まず冒頭で感謝を伝えておきたいと思います。
14年もありがとうございます。
今の世の中は、過剰に感情があふれているように感じます。あるいは、その感情に抗ってものわかりのいい善良な人でいることに躍起になり、雁字搦めになってしまっている人もいるかもしれません。加熱と冷却のサイクルが早く、人付き合い、店付き合いのサイクルも短くなってしまっている気がします。でも、そう感じさせる要因のほとんどはインターネット(SNS)だと思っていて、そこから離れれば穏やかで緩やかな(けっして過剰ではない)人付き合いは変わらずそこにあります。
そういった、平熱で永く付き合いたいという気持ちを叶えるために(その永い時間軸を可能にするために)、静かに、こっそりnicolasを好きでいてくださっている方たちに感謝しています。自分の好きなものをコミュニケーション・ツールにしたくない、コンテンツとして消費したくないという気持ちで接してくださっている方たちに、心からほんとうに感謝しています。末永くよろしくお願いいたします。ときどき見にきてください。きっと変わらずやっているはずです。
この先の文章は、この先のことを書こうと思います。ごく個人的なことですので、お時間があるようでしたらお付き合いください。
今年、由賀さんは50歳になります。わたしは、来年50歳です。目標としてきた先輩方に比べたらまだまだ若いですが、それでもこの先今の営業形態をこのまま続けることは難しくなるだろうな、と思いながら日々営業しています。
わたしの母も由賀さんの両親も田舎で暮らしていて、高齢ですし、介護のことも考えていかないといけない年齢になりました。わたしたちは子供もいないので、墓じまいのことなんかも考えたりします。お店にかまけて親戚付き合いもおろそかにしてきてしまったな。思えば自分たちのやりたいことばかりやってきてしまった気がします。
本や映画も昔ほどは読んだり観たりできなくなりました。目も見えにくくなりましたし、腰も痛いし、トイレも近くなりました。なにより、仕込みや片付け、事務作業の時間が思ったよりもかかるようになってきて、以前より可処分時間の確保もできなくなりました。(曽根の小説のことを気にかけてくださっている方へ。もたもたと書いています。気長にお待ちいただければと思います。)
先日、とある歴戦のシェフに話を伺ったとき、膝がしびれて感覚がない、針を打ってなんとかやっている、と言っていました。お店が忙しかったら無理して身体がわるくなるし、お客さんが来なければメンタルが(支払いも)厳しい。ちょうどいいといいんだけどね、と。話しているときは冗談めかして言っていましたが、やせがまんの美意識を共有しているからこそ、その奥にある今の価値観への諦念を感じてしまいました。食材・ワインの原価も上がる一方で、デイリーにお店を使いたい方たちに場と時間を提供することはいつまでできるのだろう。そのシェフは「インターネットによって混ざってしまう前のフランス料理がほんとうに好きだった」と何度も言っていました。
ずっとお店の食材やワインを配達してくれていた兄さんが去年仕事を辞めました。いつもしんどそうでしたが、野球が大好きな人で、配達時の短い時間にひとことふたことその話をするとうれしそうに、楽しそうにしていました。ある年の年末、ものすごく忙しい時期に「オレらのこの仕事(物流の仕事)って、なにになるんすかねえ」と言っていたことを覚えています。「いや、そんな。いつもほんとにありがとうございます」なんて答えたと思うのですが、実際言葉が出ませんでした。でも、気の利いたこと言ってもしょうがなかったような気もします。ここになら本心を吐露していいと思ってくれたことを、喜ばしく思うべきなのかもしれません。
新しく担当になった人は、下北沢で飲むのが好きみたいです。ひとことふたこと話すことは人が代わっても続けていこうと思っています。
お店の電気や壁などの工事を請け負ってくれているおじさんは、すっかりおじいさんになりました。昨年体調を崩し入院して、手術は成功した、と言ってはいましたが、声はやっぱり少し気弱になったような気がしました。思うように仕事ができていないようで、実際現場に来て作業をしてくれるのは、外国人の方ばかりになりました。nicolasオープンのときに、東日本大震災でいろいろ大変だった時期に水道まわりの工事をしてくれたおじさんは元気かな。また飲みに来て欲しいな。
カフェなんていうのは、ほんとうに役に立たないなと思います。「役に立たないものこそ、不必要なものこそ、ほんとうは重要」なんて言葉も、誰かに言ってもらう分にはいいですが、特に今の時代は、自分でそれを言ったらちょっと違う気がしてきてしまいます。そう思っていてくださる方がたくさんいることもわかっています。ほんとうにありがとうございます。おかげさまで、nicolasはここまで続いてきました。ほんとうに幸運なことだと思います。
でも、ほんとうのところは、ただ便利だから来てもらえているのかな、とも思っています。役に立つと便利は違います。ひとりでも気後れなく使える、駅から近くて遅くまでやっている、煙草も吸えるし酒も飲める、もしくは酒を飲まなくても(飲めなくても)いい。本も読める。コーヒー1杯でもいいし、ハレの日の食事にも使える。便利という需要に応えることは、以前よりもうれしく感じていて、ただ、これをずっと続けていたらやっぱり体力が持たない感じにはなってきました。
わたしが、ほんとうに維持したいものはきっと、この便利さと用途の多様さから生まれる「あ、自分とは違う属性の人もいるな」と各自が明確に感じることができる場所なんだと思います。むかしは、わたしたちみたいな高卒(専門卒)で飲食業をやっているようなやつでも触れられる場所に、文化芸術はありました。わたしが文化芸術に触れさせてもらったかつてのカフェは、そういう場所でした。「ここはわたしのような人の場所ではないけれど、いさせてもらえる」という謙虚さと承認が生まれる場所だったのかもしれません。
nicolasはなんだかんだ言いながら、そういったたくさんの人にコミュニケーション・ツール、コンテンツとして消費してもらえたからこそ、これが維持できていたんだな、とも思っています。
この頃は外国人のお客さんも増えてきて、アジア系の方たちはもちろん、欧米の方たちもときどき来ます。そんなときは、グーグル翻訳を使いながらなんとかやっています。「提供に時間がかかります」とか「キャッシュ・オンリー、OK?」とか。食材やワインの説明はやっぱり難しいですね。『ふきのとう』とかは、固有名詞を伝えるよりも「日本の春の野菜です」と伝えることに意味があるような気がしています。
そういったお客さんがワインを飲んだり煙草を吸ったりしているのを見て、まあわたしも昭和から生きてきた人間ですので、「わたしたちのお店に外国の人が来てる!」なんて感慨深く感じたりしてしまいます。
ふと、ずっと考えてきたこと、「日本人が日本であの頃のフランスのカフェをやること(もしくは、日本人が日本で日本の食材をつかってイタリア料理をやること)にはなんの意味があるのか」http://www.nicolasnicolas.com/blog/?p=2303
に対して、おぼろげながらも答えのようなものがいつか出るのではないか、と思うようになってきました。
日本の伝統を守る、フランスやイタリアの伝統を伝える、そういったことは、各分野の偉い方々がメディアを通じてこれからもやっていくでしょう。わたしたちが、わたしたちの規模でやることはそれとは別のことでいいと思うようになりました。伝統を守るようなポジションからでは伝えられないこと、それはなんでしょうか。
nicolasは、わたしたちは、異形のキメラです。日本の喫茶店文化と、フランスのカフェ文化に、日本的にアレンジされたイタリア料理、本だったり音楽だったりがつぎはぎのように合わさっています。地元は東京ではありませんし、特化した専門性もこれといって持ち合わせていません。ですが、そんなごちゃまぜなものに、違う価値基準の国の方たちが触れて、なにかを感じてくれている。これを「日本」だと感じるのか。「ノスタルジー」だと感じるのか。「いまどき、こんな価値観は遅れている」と言われ続けているものでも、これを維持すれば、この価値観がまったく思いもよらない別の文脈で価値を持ったりするのだろうか。
お店はここにあって海外には持って行けないから、アニメや洋服みたいに日本だけでなく海外でも評価される、みたいなことには縁がないと思っていたのですが、来てもらえれば感じてもらえるということを考えたことがありませんでした。これは、お店を始めたころから考えるとほんとうに思ってもみなかったことで、人ごとみたいに少しわくわくしています(もちろんインバウンドの弊害もあることは理解しています)。
四半世紀前は、nicolasみたいなカフェはたくさんありました。一つの町にひとつぐらいあったと思います。東京以外にもたくさんありました。コロナ禍もあり、昨今の人手不足、物価高、飲食業(を含めた接客業)に対する敬意の喪失、様々な要因があり、体力的・精神的・経済的に維持が難しくなってきて、少しずつお店がなくなっていきました。高齢化を理由に閉店するお店もたくさん見送ってきました。跡地には、何事もなかったように新しいお店ができて、新しい人の流れが生まれています。そのサイクルのなかに、わたしたちもいるんだなということが、はっきりと自覚できるようになってきました。
nicolasがなくなったあとでも、連絡をとったり飲みにいったりしてくれるかな(してくれるといいな)、という友人がいます。お互いに、名前や能力や利便性で付き合っていない人たち。製造業をしている友人、会社勤めをしている友人、親としての仕事をちゃんとやっている友人たち。彼らのおかげで、年相応のことを考えることができていたりもするのでしょう。ほんとうに感謝しています。
若いころは、一緒に切磋琢磨して夢という山を登る仲間や、そのロールモデルを探していたように思います。この先は、緩やかに一緒に山を下る仲間を大切にしたいと思っています。頂上はまだずっと上に見えますが、そもそも頂上を目指してはいなかったのかもしれません。一緒に登っているうちに、頂上ではないところに居場所が見つかったことが幸運で幸福だったのだと思います。
そのうえで、実は、まだまだこの先も登り続けるぞという気概を持っていないと、緩やかには下れない(急降下してしまう)ということも実感してきています。なんとかゆっくり下って、そして最後はみなそれぞれの家に帰ることになるのでしょう。
ゆっくり下るうえでわたしたちにとって必要なのは、無理をしないことと、幅広い需要に応えることを維持することだと思っています。身の程をわきまえること、先鋭化しないこと。分母の大きさで競い合う土俵に上がらないことと、大衆に背を向けないことの両立。そのためには、メディア、権威、イデオロギーから自由であること。とりわけ、イデオロギーから自由であること(優先順位を下げること)が大切なんじゃないかと近頃は思っています。
いつのまにか、イデオロギーとは名ばかりの、それはもはや思想ですらない、ただの好悪感情に成り下がった形式的な言葉の対立ばかりが目につくようになってきました。それは今、なかなか強い力を持っているように思えます(メディアと権威が力を失ったから、相対的に強く見えるのかもしれません)。結局わたしのような凡庸な人間にとっては、それらに絡めとられないようにしっかりと距離を置くことが、なにより大切だと思うようになりました。
ありがたいことに食というものは、それらから自由でもやっていけるジャンルだと思っています。もしかしたらそれは、この現代においては希有なことなのかもしれません。せっかく自由にできるんだから、わざわざ食の場に思想を帯びさせなくていい。そうすれば、結果的にもしかしたら、思いもよらない偶然によって、きっとなにかを繋げることができるんじゃないかと思えるような気がしています。
これが、大きく変わるかもしれないしそれほど大きくは変わらないかもしれないこの時代の流れに対して、たった今このとき、わたしの考えていることです。
日常的にSNSに言葉をあまり置かなくなったのは、その言葉が呪縛になってしまい、自分自身でそれを訂正することができなくなってしまうんじゃないか、と感じているからです。ですので、今ここまで書いてきた言葉も、自分自身で訂正していけるように、この先を目指していきたいと思います。来年の15周年には、まったく違うことを言っているかもしれません。
そして。ここまでこれだけ言葉を並べておきながら何を言っているんだと思われるかもしれませんが、言葉が得意な人たちは、言葉だけならなんとでも言えます。でも、どんなにきれいな言葉をインターネットに並べても、本質的なリスペクトがない人の言葉はわかります。人が不在の言葉です。そういった言葉と距離をとり、インターネットと距離をとり、イデオロギーと距離をとって、触れられるものを、触れられる人を大切にしてください。触れられる言葉を大切にしてください。
nicolasはこの先も、異形であることに静かに誇りを持って、曖昧な輪郭を維持するために意地を張って、頑固な中庸を目指したいと思います。そのずっとずっと先、ゆっくり下った山のふもとには、きっとこれから山を登る若い人たちもたくさんいるでしょうし、先に役目を終えて余生を送っている人たちもいるでしょう。彼らに、わたしたちからなにかを渡せたらうれしいし、彼らからなにかを受け取れるのなら、それはもっとうれしいことだと思っています。
どうか、今後ともよろしくお願いいたします。
nicolas 曽根雅典 曽根由賀
2025/05/01 00:00 | Category:nicolas