女は女である。

nicolasとKino Igluの映画会「France Je’t aime!」、大雪に見舞われましたが、多くのお客さまにお越しいただき、本当にありがとうございました。また第2回、第3回と開催したいと思っています。

さて、キノ・イグルーさんは、「イベントなどで出会った方に好きな映画を書いてもらうノート」というのを持っていらっしゃって、ニコラの4人もそこに好きな映画を書かせていただきました。「ニコラの4人のオールタイムベスト」に、みなさんが果たして興味があるのかわかりませんが、僕たちの備忘録として載せておきます。

大女将
『女は女である』 ジャン=リュック・ゴダール
『浮き雲』 アキ・カウリスマキ
『愛のむきだし』 園子温
『シェルブールの雨傘』 ジャック・ドゥミ
『夜顔』 マノエル・デ・オリヴェイラ
『昼顔』 ルイス・ブニュエル
『バーバレラ』 ロジェ・ヴァディム
『黒猫・白猫』 エミール・クストリッツァ
『まぼろし』 フランソワ・オゾン
『エル・スール』 ビクトル・エリセ
『女と男のいる舗道』 ジャン=リュック・ゴダール

女将
『花とアリス』 岩井俊二
『不思議の国のアリス』 ウォルト・ディズニー
『耳をすませば』 近藤喜文
『アマデウス』 ミロシュ・フォアマン
『ライフ・イズ・ビューティフル』 ロベルト・ベニーニ
『幸福の黄色いハンカチ』 山田洋次
『女は女である』 ジャン=リュック・ゴダール

パティシエ
『女は女である』 ジャン=リュック・ゴダール
『白魔女学園』 坂本浩一
『時計じかけのオレンジ』 スタンリー・キューブリック
『スタンド・バイ・ミー』 ロブ・ライナー
『ゴッド・ファーザー』 フランシス・フォード・コッポラ
『ロッキー』 ジョン・G・アビルドセン
『グーニーズ』 リチャード・ドナー

コック
『ニュー・シネマ・パラダイス』 ジュゼッペ・トルナトーレ
『愛のむきだし』 園子温
『浮き雲』 アキ・カウリスマキ
『ロバと王女』 ジャック・ドゥミ
『ギター弾きの恋』 ウディ・アレン
『レザボア・ドッグス』 クエンティン・タランティーノ
『シザー・ハンズ』 ティム・バートン
『アイデン&ティティ』 田口トモロヲ
『宗方姉妹』 小津安二郎
『女は女である』 ジャン=リュック・ゴダール

あきらかに映画の好みが違う4人の、全員のオールタイムベストに『女は女である』が入りました。それだけ、今回の映画会は僕たちにとって特別な映画体験でした。たぶん、一生心のベスト10から外れることはないと思います。

来てくださったお客さまにとっても、そんな映画体験になっていたらいいな、と思います。

キノ・イグルーさんのイベントは、このあとも目白押しです。
みなさんもぜひ素敵な映画体験を。
http://kinoiglu.cocolog-nifty.com/

「France Je t’aime!」 ~ nicolas × Kino Iglu ~

すこし早いバレンタイン企画として、
Kino Iglu(キノ・イグルー)さんによる映画会を開催します。

※ すべての回、満席となりました。
たくさんのご予約ありがとうございました。

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♦上映作品

『女は女である』 (1961年/ フランス・イタリア合作/ 84分) 
監督:ジャン=リュック・ゴダール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、ジャン=ポール・ベルモンド

物語:1961年、パリ。
   ダンサーのアンジェラは、夫の書店員エミールに
   「24時間以内に子どもが欲しい!」と言い出すが、
   エミールは意に介さない。
   「それなら他の男に頼む」と
   息巻いたアンジェラだったが……
   1961年度ベルリン国際映画祭銀熊賞・主演女優賞受賞。

配給:ザジフィルムズ
画像:©1961 STUDIOCANAL IMAGE
   - EURO INTERNATIONAL FILMS,S.p.A.

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映画上映後に、お茶の時間をご用意しております。
『女は女である』のキャバレーをイメージした空間で、映画の余韻とともに、
マカロンと赤ワイン、またはカフェモカをどうぞ。
BGMにはフレンチミュージック(選曲:nicolas)、
フランス関連の書籍なども、ご自由にお読みいただけます。
また、今回、Kino Iglu さんお勧めのフランス映画50本リストのお土産つきです!
パリへのショートトリップを、心ゆくまでお楽しみください。

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♦ 詳細

日程:2月8日(土) ・ 9日(日) 2日間
時間:各日2回上映
   [マチネ] 14:00開場、14:30~スタート / [ソワレ] 18:00開場、18:30~スタート
場所:nicolas
料金:¥2,500-
    nicolas のマカロンと、赤ワインまたはカフェモカ
    Kino Iglu さんお勧めのフランス映画50本リストのお土産つき

定員:各回15名限定
ご予約:Kino Iglu さんまで
     メールでの事前予約制です。
     kinoiglu@hotmail.com
     件名を「France Je t’aime!」として、
     お名前、日時(ご希望の日にちと、ご希望の回)、参加人数、
     ご連絡先を明記のうえ、ご予約ください。

♦Kino Iglu (キノ・イグルー)
2003年に中学校時代の同級生、
有坂塁と渡辺順也によって設立された移動映画館。
東京を拠点に全国各地のカフェ、雑貨屋、書店、
パン屋、美術館など様々な空間で、世界各国の映画を上映している。
http://kinoiglu.cocolog-nifty.com/

     
※なお、イベント当日の通常営業は、お休みをいただきます。
  申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

ジャンゴ 繋がれざる者。

クエンティン・タランティーノ監督「ジャンゴ 繋がれざる者」を観る。カフェの人にとっては「ジャンゴ」っていうと、やっぱりラインハルトになってしまう。仕方がない。

それは置いといて。改めて、レオナルド・ディカプリオという役者の凄さを思い知らされた。「ギルバート・グレイプ」を観て、「この人すごい!天才!」と思ったときと同じぐらい、今回のディカプリオは衝撃だった。「レオン」のゲイリー・オールドマン的なキレっぷり。「おお、あのヒョウロクダマみたいなロミオを演じた青年がこんなにキレキレの役者になって…」というような感慨。可愛かった神木くんが「桐島」でグミチョコのような前田を演じたときのような感慨。天才は何度でも輝くのだなあ。

パンフレットの町山智浩さんの解説を(加えて、町山さんのブログでの『國民の創生』論も)読むと、テーマの重さがよくわかる。奴隷制は日本人にとってリアリティーのあるテーマではないのだろうけど、目を背けている自国の黒歴史を見つめることが必要、という点は日本も同じ。これを語れるような知識を僕は持ち合わせていないので、それについては何も言えない。ただ、それを見せよう、教えようと奮闘してくれている作家さんや映画監督にはとても感謝している。

パンフレットのインタビューでキング・シュルツ役のクリストフ・ヴァルツが「クエンティンは自分が語りたいストーリーを語るためにジャンルを選び、そのジャンルが持つ要素をすべて使ううちに、そのジャンルではこれまでになかったようなレベルの高いことを達成してみせる」と言っている。更にそのジャンルのこと(=西部劇)を、ラジオの解説で町山さんが「あまりエラく思われていないもの」と言っている。この、「あまりエラく思われていないジャンルを用いて、何か本質的なものを表現する」という手法は、あれだ、「魔法少女まどか☆マギカ」だ。西部劇も、魔法少女モノも、あきらかに「あまりエラく思われていないもの」だ。

世の中で、「飲食業」というものは、まあきっとこの「あまりエラく思われていないもの」に含まれると思う。その飲食業の中でも更に、「カフェ」というものは、言うならば「もっともエラく思われていないもの」と言っても過言ではないのではないかと思う。映画界での西部劇、アニメ界での魔法少女、飲食界でのカフェ。そもそも日本のカフェ文化は、とってもマカロニ・ウェスタン(イタリア人が撮ったアメリカ西部劇)的なもの。この立ち位置、嫌いじゃない、むしろ好きだ。
ならば、カフェが持つ要素をすべて使ううちに、このジャンルではこれまでになかったようなレベルの高いことを達成してみせる、っていうのを、いつの日にかやってみたいとも思う。

タランティーノのように。

空洞だった胸がいっぱいになる。

伊藤理佐さんの「おいピータン‼」がとにかく大好きなのですが、11/10号「Kiss」での「おいピータン‼」がほんとに、よかった。

話としては、駅前にある焼き鳥屋さんの閉店を、大森さんと渡辺さんが残念がる、という、まあ、一言でいってしまえばよくある話なのですが。大事だったお店がなくなってしまう、という話は、ほんとに沁みる。僕には下北沢に好きなカフェが2つあったのですが、2つとも、もうありません。西口のチクテカフェと、一番街のカフェ・オーディネール。
ピータンでは最後、件の焼き鳥屋さんと思しきお店が登場しているDVDを観て懐かしむのですが、チクテカフェは、果たして映像が残っているのかどうかわかりません。でも、オーディネールは確か、山田英治監督「春眠り世田谷」に登場していたはず。2階のあのソファーの席が出ていたはず。今度観てみよう。

園子温監督が「希望の国」を撮ったときに、
「“情報”を記録するのではなく、“情緒”を描きたかった」
と言っていました。
情報を記録するのではなく、情緒を。それが芸術の役割だと。
そう、僕たちは、大切なことを、たとえば好きだったお店のことを、情報として記録してなんていない。そこでのなんでもない、特に意味もないような情景、雨の日の他愛のないおしゃべりや、夕方に本を読みながらカフェオレとスコーンを食べたことだとかを、情緒として記憶している。僕には情緒を描く才能はどうもなさそうなので、頑張って記憶しておくしかない。忘れないように。

あ、園子温監督といえば、「愛のむきだし」のエンディングテーマ、ゆらゆら帝国の「空洞です」が僕はとても大好きで、映画館を出たその足で、「空洞です」が収録されているアルバムを買いにいったことを憶えています。「Hemisphere vol.2」にも書きましたが。
「空洞です」の2番の歌詞(今の歌も、1番、2番て数えるのかな?)はざっくり言うと、
「意味を求めるあまり無意味なものがなくて、町には甘いムードがないよ、ムードがいちばん大事なのに」って感じなのですが、この「本来無意味な存在であるムード」こそがまさに、カフェ。
そもそもカフェなんてものは、本当に無意味なものです。なくてもいいもの。でも、その「なくてもいいもの」が町にあれば、甘いムードが出るんです。カフェには、情報として記録されるような意味なんてないから、情緒として記憶しておかないと、あの頃の町のムードなんて、みんな忘れちゃうね。僕らのことも忘れちゃうね。

みんなに忘れられてしまうのはとても寂しいので、nicolasがなくなる前に(いや、そんなすぐにはなくならないよ。たぶん。)誰かnicolasを映像に残してください。映画のワンシーンのような映像を、情緒として描いてください。
それは、たとえばこんなのがいいな。黒にピンクの花模様の洋服を着た女性が、今日まさに彼と別れるところで、彼のほうは「ねえ、最後にあの店にもう一度だけ行こうよ。で、何もなかったみたいに秘密の話でもしようよ」なんて言ってるのですが、彼女は「もうアンタの顔も見たくないし、そんなセンチメンタルな女々しいこと言ってんじゃねえよ。これだから男は!」とうんざりしている、ってシーンがいいです。

でも、やっぱり、ベタだけど、
「記録よりも記憶に残る」店、
ってのがいいかもしれない。

これから先も、みなさんにたくさん記憶する猶予を与えていくことができたらいいな、と思っていますので、よろしくお願いします。それはそれは憶えきれないぐらい、たくさん。

カフェのテーブル。

園子温監督の「希望の国」を観る。

原作本や「非道に生きる」の販売が先にあったり、週刊誌での作家の樋口毅宏さんとの対談、園監督自身の意欲的な宣伝活動を見るにつけ、とにかく観たくて観たくて仕方がなかった。先週末に公開されたばかりなのだけど、ほんとに待ちわびた、という気持ち。

作家の高橋源一郎さんが、「恋する原発」を書いたときに、
「9.11のときに、これを題材に小説を書こうと思っていたのに書けなかった理由がわかった。9.11はぼくたちにとっては“対岸の火事”だった。3.11で“当事者”になり、書くことができた。」
という旨のことをどこかに書かれていた。
当事者。園子温監督の言葉でいうところの“関係者”。
僕たちが、僕たちの関係者であるのならば、東日本大震災の“当事者”だと思うのならば、この映画は観なければいけないものだと、僕は感じた。映画の感想は人それぞれあると思うし、それは個々の判断でいいと思っている。大事なのは、忘れないこと。なかったことにしないこと。ぼくたちは、ほんとにおはぎの脳みそで、3歩歩けばすぐ忘れてしまう。大量に流れてくる情報で、大切なものでもどんどん後ろに追いやってしまう。我ながらがっかりする。

「終わりなき非日常」を終わらせるためには、映画の老夫婦のように日常を終わらせる以外に道がないのだとしたら、それはとても悲しい。

ぼくたちカフェは、「日常」(あるいは「非日常」)を売り物にしていると思っている。
コーヒーを飲んで一息つく。一日がんばった自分へのご褒美に素敵なデザートを食べる。
そんなちいさなことだけど、そんなちいさなことを日常に見つけていくことは、「希望」とそんなにかけ離れているとは思わない。

園子温監督はずっと、否定的に「家族の食卓」を描いてきた。逃げ出したい対象としての「家族の食卓」。
今回は、逃げたくないのに逃げざるを得ない家族の食卓を描いた。

園子温監督が、著書「非道に生きる」の中で、表現者としての在り方にふれた際、
「これは映画にかぎらずレストランを開くコックさんだろうが同じ、商品の作り手すべてがそうだ。」
「どんなカレーであれ、美味しければ人を惹きつける。」
と、食に携わる人たちを引き合いに出してくれた。こんなことは、そうそうない。これが、僕にはすごく嬉しかった。

だから僕は、「カフェのテーブル」にできることは何かないだろうか。それを考える。

キャプテンは、部活やめないってよ。

タマフルの放課後podcastを聴いた。
「桐島、部活やめるってよ」は、ほんとに素晴らしい映画だと思う。

今更言うまでもないことだけど、飲食業というのは体育会系だ。「桐島」の世界でいうところのバレー部だったりキャプテンだったり。久保と風助のやりとりや、実果のかすみへの嫉妬、みたいな世界。
体育会系と文化系の折り合いの悪さはどうにかならないものかと、常日頃考えている。結論から言えば、僕はこの両立を目指している。それが実現できる場が、カフェだと思っている。文化系に属しながら体育会系の要素を持っている(あるいはその逆)、吹奏楽部のポジションがカフェなのかもしれない。だから、沢島亜矢のように揺れ動く。

たとえば、某イケメンシェフが歌を歌えば、体育会系からは「アイツなにやってんだ?」で、文化系からは「お前、こっちくんなよ」。某俳優がホニャララキッチンをやれば、体育会系からは「舐めた気持ちで料理なんかすんじゃねえよ」で、文化系からは「で、それおいしいの?」。
ラジオで宇多丸さんが、
「ラッパーにも、ラッパーとはこうあるべきみたいな同調圧力がある」
というようなことを言っていたがまさにそうで、飲食業でも、料理人はこうあるべき、きっと全ての職業で、その同調圧力はあるんだと思う。「ネクタイ絞めるような仕事やりたくなかったからねー」なんてうそぶいてみせる飲食業の人間も、結局サラリーマンと同じだということにすぐに気付く。
かすみが「鉄男」を観ることで、多くの文化系ボンクラたちは夢をみるのだけど(「グミチョコ」でも同様)、ほんとのところは「こっちくんな」感はかなり強いと思う。お前らみたいな恵まれたヤツらにこの本質がわかるはずがない、と。

この、お互いに思っている「こっちくんな」感を、なんとしてもとっぱらいたい。久保や風助や実果の言葉を、前田や武文に通訳できるようになりたい。もちろん逆も。
それができて、体育会系、文化系、どちらからも認められてる人って誰だ?
石井好子?澤口シェフ?伊藤理佐?

タモさんだ。

僕はずっとタモさんを目指して、ドラフトの声なんてかからないことをわかっていながら、深夜の素振りを続ける。
映画部とバレー部が同じ店内にいて、少しだけ相手に歩み寄れるような、屋上での前田と宏樹の出会いのような場に、カフェがなれたらいい。

ミッドナイト・イン・パリ。

ウディ・アレン「ミッドナイト・イン・パリ」を観る。
ウディ・アレンは、やっぱり鉄板。そして、パリも鉄板。更に、ナイロン100℃「ノーアート・ノーライフ」を持ち出すまでもなく、パリのカフェやサロンにたむろする芸術家モノも、鉄板。

いつ頃から、「ノスタルジー」という言葉は、悪い意味で使われるようになったんだろう。ノスタルジーを賞賛する気は毛頭ないけど、卑下したり嘲笑したりするものではないと思っている。
芸術が、まだ芸術として機能していた頃では、カフェも、まだカフェとして機能していた。それが今や、文学論や映画論、芸術論を戦わせる場はネットになってしまった。それが悪いことだとは思わない。だってそのほうが断然、便利で効率的だから。ル・シネマで、「ミッドナイト・イン・パリ」の隣りの劇場で上映している「サニー 永遠の仲間たち」は、著名な方にツイートされてから集客が劇的に増えたということだし、そのツイートを見なければ、僕も間違いなく観ていなかった。本当に素晴らしいツールだと思う。だからこそ、それを踏まえた上で、不便で非効率なものへの愛着が一層湧いてしまう、アナログ世代のラストエイジな僕らは、懐古主義として笑われているのかもしれない。

それでも、ネットでやっているそれを、どうせやるならカフェでやって欲しい。酒場でやって欲しい。だって今でも、リアルなカフェの店内では、作家と編集者がお喋りしていたり、ミュージシャンがユーストを撮っていたり、舞台役者がシュークリームを食べたりしているんだから。
僕らの今生きている時代が、あと何十年か経ってから、「2012年、あの頃がやっぱり黄金世代だよな!」と憧れられるとき、今店内にいる彼らはヘミングウェイであり、ピカソであり、ゴーギャンであるのだから。

ノーアート・ノーライフ。

ナイロン100℃のお芝居「ノーアート・ノーライフ」を観劇。パリのカフェ(酒場)に集まる、うだつの上がらない芸術家気取りの男たちの物語。これは観ない訳にいかない。

「音楽も映画も芝居も、相対的な価値しか与えられようがない」「(曖昧な物差しばかりの世界で)世の中の評価と自分との間でもがき続ける」という内容のケラさんの言葉が折込のチラシで入っていて、図々しくも共感してしまう。「お客さんのニーズと、自分たちがやっていることは合致しているのか」ということ。迎合するのか、貫き通すか、のバランス。

そして劇中での、芸術家の、他の芸術家に対するリスペクトにも共感してしまう。他の分野の芸術家に敬意を抱くとき、自分の中にある芸術家気質を再認識する。「ジャンルは違えど、僕はあなたの苦悩を理解できます」という気持ち。まあこっちはそんな上等なもんじゃないのだけど。
それでも、誤解を恐れずに言えば、飲食業の人間も皆、自分のことを芸術家だと思っている。何を媒体として自己表現をし、お客様からお金を頂戴しているかの違いだけ。僕らはみんな芸術家気取りだし、そしてそうあらねばならない、そんなプライドにしがみついている。「おいしい」という、なんとも曖昧な評価を求めて。

かなり笑えて、そして、少し泣きました。

あ、あと、舞台の床。nicolasの床と一緒ですよ。で、BGMはゲンスブール。やっぱパリのカフェって言ったらこれなんだよ。うだつの上がらない芸術家気取りがくだを巻く店。ああ、そんな店になりたい。いや、むしろそんな店でくだを巻きたい。そんな店でくだを巻く芸術家気取りのダメな奴等の、なんと魅力的なことよ。

Mine Vaganti。

シネスイッチ銀座にて「あしたのパスタはアルデンテ」を観る。

まず、ツッコミどころとしては、原題の「Mine Vaganti」(直訳すると“浮遊機雷”)を、どうこねくり回して「あしたのパスタはアルデンテ」という邦題にしたかと。だって「あしたのパスタはアルデンテ」ですよ。それでも恋するバルセロナかと思いましたよ。あしたのパスタはアルデンテって。毎日アルデンテにしてください。

アルデンテはさておき。映画はプーリアのレッチェが舞台。街並みも海も美しく、出演している俳優さんもみなさん南イタリア出身の方ばかり。陽気な感じでとてもよかった。お料理のシーンがもっとあったらな、と個人的には。プーリアは行ってみたい場所のひとつなので、より一層行きたくなりました。ソラマメのピュレとチーマディラーパやらオレキエッテやらフリセッレやらを食べたい。

僕が銀座で、そんなアルデンテを観ている頃、嫁は新宿で「ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー」を観ていたそうです。なんかもう、タイトルだけで敗北感が。
「へぇ、そのアルデンテ観てきたんだ。私ヌーヴェルヴァーグだけど?」的な。
偶然ですが、両作品とも同じ配給会社。

イタリアをフランスにバカにされるのは悔しいので、邦題、もうちょっとなんとかしてください。

飯と乙女。

渋谷ユーロスペースにて「飯と乙女」を観る。

食を題材にした映画は、やっぱりいちばん観たいジャンル。食材そのものにスポットライトが当てられている作品より、「食事」という行為を通しての人間関係を表現したものに、より興味があります。誰かと食事を一緒にするっていうのは、とても密で、とてもエロティックですよね。

いきなりですが、本編のあとにスピンオフの短編があり、ウサギの料理を食べるカップルの話だったのですが、どうもみたことがあるエチケットのワインだなあと思ったら、出演していたのが、あの中田英寿もワイナリーを訪ねているカステッロ・ロミトリオのオーナー(息子)。オーナー自らなかなかキワモノな役を見事に演じきっていました。Coniglio in padellaを作っていたシェフはローマの有名シェフだそうです。どうりでウサギのさばき方が尋常じゃなかった。自分の専門的な分野を、映画やドラマでおろそかに演出されているのをみて「これはないわ」と興醒めしちゃうことってないですか。その逆で、そういうディティールがしっかりしてるとそれだけで嬉しくなるものです。すげえうまそうでした、ウサギ。

「食べものを食べてもらうことで、メシを食っていく」という仕事をしているので、この映画本編のテーマの「生きるために食うのか、食うために生きるのか」「食う(生きる)ためには、あるいは食わせていくためには、なにかを犠牲にしなければならない」といったことはすごく身近で。よく言う「とりあえず飲食業なら賄いあるし食うには困らない」というのと、「この仕事でメシを食っていけるのか」というのは別の意味なので。あ、「パンがなければブリオッシュを食べればいいのよ!」ていうのとも全然別の意味ですので。

上映後、ご縁があって監督さんとも少しお話させていただきました。ウサギもロミトリオもありませんが、今度メシでも食いにきてください。