カフェのテーブル。

園子温監督の「希望の国」を観る。

原作本や「非道に生きる」の販売が先にあったり、週刊誌での作家の樋口毅宏さんとの対談、園監督自身の意欲的な宣伝活動を見るにつけ、とにかく観たくて観たくて仕方がなかった。先週末に公開されたばかりなのだけど、ほんとに待ちわびた、という気持ち。

作家の高橋源一郎さんが、「恋する原発」を書いたときに、
「9.11のときに、これを題材に小説を書こうと思っていたのに書けなかった理由がわかった。9.11はぼくたちにとっては“対岸の火事”だった。3.11で“当事者”になり、書くことができた。」
という旨のことをどこかに書かれていた。
当事者。園子温監督の言葉でいうところの“関係者”。
僕たちが、僕たちの関係者であるのならば、東日本大震災の“当事者”だと思うのならば、この映画は観なければいけないものだと、僕は感じた。映画の感想は人それぞれあると思うし、それは個々の判断でいいと思っている。大事なのは、忘れないこと。なかったことにしないこと。ぼくたちは、ほんとにおはぎの脳みそで、3歩歩けばすぐ忘れてしまう。大量に流れてくる情報で、大切なものでもどんどん後ろに追いやってしまう。我ながらがっかりする。

「終わりなき非日常」を終わらせるためには、映画の老夫婦のように日常を終わらせる以外に道がないのだとしたら、それはとても悲しい。

ぼくたちカフェは、「日常」(あるいは「非日常」)を売り物にしていると思っている。
コーヒーを飲んで一息つく。一日がんばった自分へのご褒美に素敵なデザートを食べる。
そんなちいさなことだけど、そんなちいさなことを日常に見つけていくことは、「希望」とそんなにかけ離れているとは思わない。

園子温監督はずっと、否定的に「家族の食卓」を描いてきた。逃げ出したい対象としての「家族の食卓」。
今回は、逃げたくないのに逃げざるを得ない家族の食卓を描いた。

園子温監督が、著書「非道に生きる」の中で、表現者としての在り方にふれた際、
「これは映画にかぎらずレストランを開くコックさんだろうが同じ、商品の作り手すべてがそうだ。」
「どんなカレーであれ、美味しければ人を惹きつける。」
と、食に携わる人たちを引き合いに出してくれた。こんなことは、そうそうない。これが、僕にはすごく嬉しかった。

だから僕は、「カフェのテーブル」にできることは何かないだろうか。それを考える。