1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
3.吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)
最初に就職した吉祥寺のケーキ屋でのお給料は10万円ぐらいでした。そこから、小平のアパートの家賃54000円を引いたお金で毎月生活をしていました。日々の営業でロスになったケーキでおなかを満たし、どうしても足りない場合は実家に電話をしてお金を援助してもらいました。
そのケーキ屋にはサロン・ド・テ(喫茶)がありました。どこのケーキ屋でもたいてい最初からアトリエ(工房)には入れず、新人はまずは喫茶と販売をやるのが普通でした。もちろんわたしも喫茶からのスタートになりました。
喫茶にはアルバイトの大学生がたくさんいました。同年代のアルバイトの学生さんたちです。東京の、キラキラした大学生。ベネッセに就職が決まった落ち着きのある知的な女の子。彼氏が読んでいる三島由紀夫の「若きサムライのために」をわたしに薦めてくれた仙台出身の女の子。バイトのあとクラブに行って踊っている男の子。のちに就職氷河期と言われる時代のど真ん中で、「手に職を」と言われていた時代でしたが、大学生の子たちはみんな大人びていて、わたしだけが眩暈がするほど世間知らずで幼く、ふわふわしていました。
そのアルバイトの学生さんの中で、医大に通っている女の子がいました。わたしはその子と付き合うことになります。彼女の住んでいる部屋はとても広くて、そこでわたしはごはんを食べさせてもらいました。ハニーマスタードチキンという食べ物を初めて食べました。
彼女がお金をすべて出してくれて、北海道に旅行にも行きました。自転車も買ってもらったような気がします。彼女の部屋にはiMacがあって、彼女はポストペットという、メールをペットが運んでいってコミュニケーションをするソフト(?)をやっていましたが、わたしはパソコンを持っていなかったので、彼女はよく手紙を書いてくれました。彼女の部屋に入り浸ってごはんを食べさせてもらい、たまに自分の下宿に帰るとポストに彼女からの手紙が入っているんです。字がとてもきれいな子でした。
生活のお金が楽になったわたしは(給料も少しはあがりました)、小平から、吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区、道路を挟んで向かい側の住所は武蔵野市でした)へ引っ越しました。市外局番の「03」に憧れがあったからかもしれませんが、そもそも練馬区と武蔵野市では練馬区のほうが家賃が安かったからです。
吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)に引っ越したわたしは、彼女そっちのけで遊ぶようになり、別れます。もう携帯電話(PHS)は持っていた気がします。ショートメールでユカさん(芸大を出た大阪のユカさんは、東京でテレビの仕事をしていました)や、今のゆかさんともやりとりをしたりしていました。
仕事も楽しくて、サロン・ド・テのキッチンの専属になり、スコーンを作らせてもらえるようになったり、ミルクレープを焼いたり、喫茶の仕事ももちろんやり、コーヒーや紅茶を淹れたりサンドイッチを作ったり。サンドイッチ用の食材をこっそり食べていて、注意されたりしていました。このときにすでに、アトリエにこもってケーキを作り続けるより、お客さんの顔が見える場所で仕事がしたいなと思いはじめていました。(というより、お客さんに顔を見てもらえる場所に居たかったんだと思います。)
長野オリンピックも終わり、1999年。ノストラダムスの大予言や「2000年問題」が世間では話題だった頃です。わたしは日本ダービーの馬券を当てて、そのお金でパソコンを買いました。ポストペットをやってはみましたが、もうペットを送る相手はいませんでした。小さなホームページをつくり、インターネット上で日記を書き始めます。東京ではすでにカフェブームが始まっていて、わたしは今のゆかさんに呼び出されて、渋谷や表参道、原宿、中目黒の深夜までやっているカフェに行くようになります。そこで、カフェとゆかさんに完全に心を奪われます。
ゆかさんは山田詠美が好きで、わたしは山田詠美の初期作品をいくつか借りて読みました。「この本が好きだというゆかさんは、どんな人なんだろう」というフィルターを通して読んだ『僕は勉強ができない』と『蝶々の纏足』は、超弩級の破壊力で、こんなの恋に落ちないわけがない。『蝶々の纏足』は中学生のときに教科書で読んだヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』の少女版のような物語でした。
ゆかさんは当時、渋谷の公園通りのカフェで働いていて、かわいくておしゃれで東京に馴染んでいて、わたしがなりたかった女の子そのものでした。カフェは、当時体育会系男社会だった飲食業において、唯一、文化系で女子的でした。
2000年になったとき、わたしは23歳、ゆかさんは24歳でした。

※wikipediaで「カフェ」を調べると「カフェの特徴」という項目で、建築家のクリストファー・アレグザンダーという人の言葉が出てきます。この言葉こそが、当時のわたしが、わけもわからずカフェというものに惹かれた理由だと思っています。以下に抜粋します。
『建築家のクリストファー・アレグザンダーはストリート・カフェの存在理由について、「人びとが衆目のなかで合法的に腰をおろし、移りゆく世界をのんびり眺められる場所としての機能」を挙げている。つまり、カフェは都市空間に溶け込むという都市生活者の潜在的な願望を叶える場所といえる。』
2026/03/10 13:49 | Category:Nibiiro
1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
1995年、長野の高校を卒業して、東京の製菓学校に通うため上京しました。学校の近くにアパートを借り、電話を引きました。電話番号は、東京なのに市外局番が03ではなく、わたしは少しだけがっかりしました。
2年間で専門学校を卒業し、なんとなくすぐには就職できず(モラトリアムだったのです)、20歳のわたしは喫茶店でバイトをしながら、東京に馴染むための日々を送っていました。夏に長野に帰省し、大阪の芸術大学に進学した先輩に再会します。先輩の名前は「ユカさん」と言います。わたしの通っていた高校は元女子校で、わたしが入学した当時は男女比が1:4でした。ユカさんは高校時代から大人びていて、『女子校の王子様』のような人でした。例に漏れずわたしも憧れていたのですが、大阪に行って更に垢抜けてエロかっこよくなっていて、話すときに緊張してしまうぐらい大人の女性になっていました。わたしの高校時代のバイト先であるピザ屋のようなバーで再会したのですが、そこで知人から「なんかユカさん、おまえなんかのことがお気に入りらしいよ」とふてくされて告げられました。ユカさんから「大阪あそびけーへん?」と誘われ(ユカさんはすっかり関西弁を身につけていて、それもまたかっこよかった)、ユカさんの下宿へ遊びに行くことを決意しました。
高校時代、わたしは友人から「おかま」とからかわれるぐらい、女の子になることを目指していました。私服高校だったのですが、ボーイッシュな女の子のような格好をしたくてオーバーオールを着てみたり、ヴィジュアル系バンドに誘われてからは髪を伸ばして後ろで結び、黒で襟元の開いた鎖骨の見える服を着たりしていました。お酒に酔った同級生がふざけてキスをしてくることも満更でもなく思っていて、その友人に彼女ができたときには「オレのほうが可愛いのに!」と嫉妬したりしていました。
そんなわたしでも彼女はいました。ただ、高校生の恋愛、携帯もインターネットもない時代の田舎の町です。今のようにジェンダーも分類されていなかったので、わたしは「わたしは女の子になりたいのに女の子のことが好きなのはおかしいんじゃないか。男の子を好きになるのが普通なんじゃないか」とよくわからない悩みを抱えていました。彼女から男を求められたときに、自分の中から男をどう出力すればいいのか全然わからず、周りの友人の見よう見まねで、でもそれが全然上手くできず、付き合いは長く続くことはありませんでした。きっと今の時代にわたしが若者だったら、「男の娘」になり、お化粧して可愛い格好して、インスタに自撮りをアップしていたと思います。
それを見かねたリーダー格の友人が、卒業間近に、とても経験豊富な女の子をわたしに紹介してきました。今思えば、この友人はわたしが「男にならない選択をする」ことを本当に心配していたんだと思います。男らしい友人でした。この古き悪しきホモソーシャルのしきたりのようなものを、今では余計なお世話と思う人もいるでしょう。でもわたしは、女の子に導かれるまま長野の繁華街のラブホテルへ行きました。緊張して全然上手くいきませんでしたが、わたしも女の子も、友人の顔を潰さずに済んでほっとしていた気がします。
そんなわたしが、ユカさんの下宿に遊びに行きます。一度東京に戻ってから、新幹線で大阪へ向かいました。新幹線の中で読むために、大阪出身の喫茶店のバイト仲間が「たぶん絶対好きだと思う」とおすすめしてくれた、中島らも「白いメリーさん」の文庫本を買ったことを覚えています。たぶん新大阪駅で待ち合わせをしたんだと思います。わたしはまだ携帯電話をもっていなくて、ポケベルだったのか、あるいはPHSを持っていたのか、記憶は定かではありません。ユカさんの下宿に着き、テレビをつけると吉本新喜劇がやっていて、ああここは大阪なんだなと感激しました。ユカさんの部屋で煙草を吸い、ユカさんが撮ったという写真を見せてもらうと、そこには半裸でベッドに座るユカさんの写真もあって、どぎまぎしました。遊びに行って何泊かしました。
ユカさんの芸大での友人の女の子たちが複数人で一軒家を借りで住んでいて、そこでケーキを作ったりもしました。ユカさんは誇らしそうに「な? かわいいやろ?」と友人たちに言っていました。ユカさんは過剰にわたしを「かわいい」と言ってくれた人で、女の子同士のコミュニケーションで、お互いをかわいいと言い合うあの感じだと思っていました。たぶん3泊ぐらいしたんだと思います。わたしは楽しくて、特別扱いされていることがうれしくて、その楽しさと特別扱いが壊れてしまうような気持ちだったのかな。今思い返しても完全にバグってるんですが、自分のことを女子校の王子様に対しての「百合要員」だと思っていたんだと思います。ユカさんに何かをすることができませんでした。(このときのわたしが、「百合に挟まる男は死刑」という価値観を知っていたはずがないのですが、本能でたぶんそれを感じ、女性の人格のわたしとユカさんの関係を、男性の人格のわたしが邪魔することが許せなかったのかもしれません。)
東京に帰る日、一緒に京都を観光しました。知恩院の男坂・女坂、銀閣寺の哲学の道。中学の修学旅行で行った場所が、全く別の場所のようでした。銀閣寺で、ユカさんが「一緒に写真撮ろ」と言い、わたしは軽い気持ちで「えー、いいよー(否定の意)」と答えると突然ユカさんは怒り出し、口をきかなくなりました。無言のままバスに乗り、京都駅に着き、ぴかぴかの駅ビルの前で最後にユカさんが「こんなの造って京都の景観が悪くなるからって、銀閣はここのホテル泊まってる人は入れません、ってやってるんだよ」と言いました。
帰りの新幹線、わたしは「白いメリーさん」のページを、頭に言葉が一言も入ってこないままめくり続けていました。「白いメリーさん」には「ラブ・イン・エレベーター」というすごく短い短編が収められています。それは、東京へ戻るわたしの心境そのもののような物語でした。東京に戻ったらちゃんとケーキ屋に就職しようと思いました。
30年前のこと、今のゆかさんとは別のユカさんとの話です。

(「白いメリーさん」はもちろんnicolasにあります。今奥付を確認したところ、1997年8月15日に第1刷発行と記載されていました。「ラブ・イン・エレベーター」はコーヒー1杯飲むあいだに読み切れるぐらいの短い物語です。よかったら読んでみてください。)
2026/03/03 14:04 | Category:Nibiiro
1.Sai River
市街地へ出るにはSai Riverを渡るしかなかった。

戦国時代、山に囲まれた盆地であるこのあたりは、武将たちの陣取り合戦がたびたび行われていたそうだ。深い霧の中Sai Riverを渡って奇襲をしかけた戦があり、その戦にはわたしたちが住む土地の名が冠されていて、それはわたしたちのアイデンティティになっていた。桃をつくること以外に何もない、物理的にも精神的にも平坦な土地だった。
中学校で同じクラスの好きな女の子が、市街地の高校へ進学する話を耳にした。わたしには少しレベルの高い高校だったけど、無理ってほどではない高校だった。わたしは、Sai Riverを渡る決心をした。
無事に志望校に合格し、市街地の高校へ通うようになったわたしは、市街地の繁華街の引力に吸い込まれた。中学のときに冒険するような気持ちで行った駅前のファッションビル。その通りから一本脇に入ったすぐ裏には、高校で同級生になった友人の家があった。市街地の人たちは、わたしたちのことを「川向こう」と呼んだが、呼ばれているこちらは無自覚で、そこまでなんとも思わなかった。吸っている煙草がマイルドセブンなのかセブンスターなのか、そのぐらいの違い。それが蔑称だったと気付いたのはだいぶあとになってからだった。
駅前のドーナツショップにはわたしの高校の先輩やバンドマンがたむろしていて、わたしよりも年上だけどまだ未成年である彼らはいつも堂々と煙草を吸っていた。わたしは背伸びをしてその輪に加わり、彼らとは違って少しびくびくしながら煙草を吸うようになった。
バンドのメンバーに入れてもらったり、無免許で原付に乗って捕まり家庭裁判所にいったり、免許を取ってからはピザのデリバリーのバイトをしたり、恋をしたり、Sai Riverを渡った先で起こっていた出来事は、わたしにとってはフィクションのようなものだった。
市街地から、ひとりSai Riverを渡って川向こうの側に帰ってくるとき、橋を渡りきるそのときに魔法がとける感覚を味わっていた。街灯もない夜道、顔をあげれば真っ黒な山がすべてを取り囲んでいた。
家に着いたわたしは家族に手土産のドーナツを渡し、部屋にこもって音楽を聴いた。二階へ上がる階段の下の小さな部屋で、道路に面していたけど深夜に車は一台も通らず、家の駐車場のトタン屋根の上に落ちる、杏の実の音だけが現実の世界の音だった。
2026/02/24 13:55 | Category:Nibiiro
nicolasは今年の5月1日で15周年になります。
毎年、周年には文章を書いてきました。15周年の文章は、毎週火曜日の定休日の午後に、少しずつ出していこうと思っています。周年まであと11週あるので、このブログの次、来週の火曜からはじまって全10回です。
15年前、最初の頃は一生懸命ブログを書いていました。20代の前半ぐらいから文章を書くことを始めて(インターネットに日記を書いていました)、お店をオープンした30代半ばのわたしには、伝えたいことがたくさんあったんだと思います。
今はもう伝えたいことなんてものは、感謝以外はほとんど何もなくなってしまったのですが、文章を書く習慣だけは続いていて、今はただ、なにか物語を編めたらいいなと思って、日々の隙間の時間にもたもたと言葉を書き連ねています。
そうこうしているうちに、例えるなら、お店のメニューとしては出せない試作品のような文章が、まあまあ、たまってきてしまいました。
実はわたしは、自分の書いた文章が好きなんです。もしかしたら、作っている料理よりも、文章の方が好きかもしれません。むかし書いた文章を読み直していたら、いい文章だなと思えるものがいくつかありました。
作った料理(文章)を捨てるのも忍びないので、それを出しておこうかな、と思います。「まかない」のようなものなので、そんなにちゃんと推敲もしていませんが、まあそういうもんだと思って、よかったら暇つぶしにでも読んでください。文章の断捨離、というか、もしかしたら終活みたいなものなのかもしれません。歳をとると、やっぱり昔話をしたくなるんだな、みっともないことだけど仕方ない。
まもなく50歳になるわたしから見て、若さと執着、情熱のようなものが、ああ、これはもうこの先書けなくなるものなのかもしれないな、と眩しく感じた文章。鈍色が眩しすぎて目を開けていられない。
一応続きものとして物語っぽく読めるように組みました。
楽しんでいただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。
2026/02/17 16:48 | Category:Nibiiro