1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
3.吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)
4.食の記憶
5.セガフレード・ザネッティ
6. 認知について
最近考えている「認知」について書いておこうと思います。
私は今年50歳になります。飲食業の人間としては、もともと体力に自信がなく、コツのようなものを掴んでなんとかやってきました。
ここのところ、思うように身体が動かず、イライラすることが増えてきました。自己嫌悪のような感情です。その状態で、「なんで怒ってるの?」と言われると、「いや、これは怒るという感情ではなくて自分に苛立っているんだ、この状態を形容するのに、怒るという言葉は的確ではない」と、怒ってしまいます。ほんとにしょうもないですね。
認知の最初の歪みは、「他意のない言葉に悪意を感じてしまう」というケースが多いと自分は感じていて、翌日よくよく考えてみると、ああ、あれはそういう意味じゃなかったのかもしれない、と反省することがよくあります。今まで負の感情は、理性でなるべく抑えるようにしてきました。その理性のストッパーが緩んできているんだな、と自覚しています。
親も高齢になってきて、「あ、少し認知があやしくなってきたな」と、話していて感じることも増えてきています。人生の残り時間が少ない人と話していると、ここからあとはできるだけ自分に正直で居たいという感情はとてもよく理解できます。言葉の精度も、少しいい加減なまま話をしていて、それはもうそういうものだと思えます。
そして、「素晴らしい人生だった」と「しょうもない人生だった」が嘘偽りなく両立することもわかるようになりました。いい認知、いい記憶のまま終わることができたら幸せだけど、最後はどうなるのかはコントロールできるようなものでもないですしね。
高齢者の比率が高くなった社会というのは、感情制御のストッパーが効きにくくなっている社会なんだと思います。
これまで私は、言葉を大事にしてきたと思っています。でも、これからは少し言葉をゆるく捉まえたほうがいいのかな、とぼんやり考えています。(それはもしかしたら、AIの言葉・自動翻訳の言葉などの、正確ではない言語の文字列を見てなにを言わんとしているかを判断するときのゆるさ、に近い感じかもしれません。)
あんなに楽しくて、夢みたいで、大好きだったことを忘れたくないな。でももう、実はほとんど忘れてしまっているのかもしれない。断片を繋ぎ直して、全く違う記憶を思い出しているような気もします。
もう、わたしの記憶なのかゆかさんの記憶なのか、わたしにはわからないんです。
2026/03/31 14:21 | Category:Nibiiro
1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
3.吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)
4.食の記憶
5.セガフレード・ザネッティ
お店という場について語ろうと思ったとき、nicolasという場がどういう場なのかということを言葉にしようとすると、どう語ってもnicolasという場が持っている本来のものとずれてしまいます。店側が、場を言葉にして規定すると、必ずそこから零れ落ちるものがでてきます。店に限らず、実はなによりその零れ落ちるものにこそ本質があったりします。良い場を維持しようと思ったら、「場について語らないこと」が最も重要だとわたしは思っていますので、nicolasという場について語ることはしません。(店側が「ここはこういう場です」と明言しないことによってしか維持できない事柄というものがあります。)
そのかわりに、わたしがどんなお店(という場)を好んできたかについて、いくつか記していこうと思います。どんな飲食店の人でも、もともとは飲食店のお客さんですし、これからもずっとお客さんであり続けます。小説家の人だってずっとこの先も小説の読者でしょうし、映画監督だってこの先もずっと観客であり続けるでしょう。すべての表現者は観客であり続けます。自分がプレイヤーとして表現できるものと、オーディエンスとして好きなものとの乖離をどうするのか。そのためにはプレイヤーとして熟練していくことだけでなく、オーディエンスの自分の感覚を維持したり更新したりすることも必要だと思っていて、お店をするというのはそういうことだと思っています。
○セガフレード・ザネッティ

セガフレード・ザネッティ(正式名称はセガフレード・ザネッティ・エスプレッソ。以下セガフレード)は、関東を中心に20店舗ほど展開しているイタリアンバールのチェーン店です。イタリアンバールというのは、イタリアでのカフェの一形態で、例えば、朝さっとエスプレッソだけを飲んだり、午後カプチーノを飲みドルチェを食べながら友人とおしゃべりをしたり、夜ワインやビールとともに軽いアンティパストを食べたりといった使い方ができる、王道のスタイルのお店です。
わたしは、セガフレードにずっと通っていました。わたしが主に使っていたのは下北沢店と渋谷店(どちらも現在は閉店)で、ときどき中目黒店、二子玉川店(閉店)も使っていました。たぶん、すべてあわせて1000回以上セガフレードを訪れています。
・下北沢店
2000年代の前半、20代半ばの頃わたしは下北沢の一番街にあるカフェで働いていました。カフェ・オーディネールという名前のお店で、わたしのカフェ観の根幹にあるお店です。
カフェ・オーディネールの営業時間は12時~24時。わたしはキッチンで料理をつくっていました。
毎朝、開店前の時間で買い出しを済ませます。駅前のスーパーや輸入食材店、踏切横にあった八百屋などを回って12時までに店に戻りランチの準備をします。その買い出しの前に、下北沢にできたばかりのセガフレードに寄ってカプチーノを頼み、買い物のメモを見ながら今日回るルートや食材を決めていました。下北沢のセガフレードはほんとうにできたばかりだったので、店長の方がわたしにいろいろ話しかけてくれました。自分が近所のカフェで働いていることを伝えると、「どうしてカフェで働いているのに、毎日カフェにいらっしゃるんですか」といった感じのことを聞かれたことを覚えています。わたしは「オンオフは外でしたいんです」と答えたと記憶しています。(このオンオフを外で済ませてからお店の業務に入るというルーティンは、コロナ禍以降はもうときどきしかしていません。nicolasで事務作業をしたり、文章を書いたりする時間に充てています。ちなみにゆかさんは、仕事が終わったあとに必ずどこかに寄りたい人です。)
カフェ・オーディネールは2年ほどで辞め、その後はいろいろなお店を転々としましたが、下北沢で映画を観たりライブを観たりお芝居を観たり、そういったときの前に後に、セガフレードを使っていました。
2011年にnicolasがオープンして、再び下北沢での買い出しの日々に戻り、毎朝の日課が再びセガフレードに戻りました。あの頃から店長さん、店員さんは一新していましたが、ときどきヘルプで初代店長が店にいたりして、チェーン店とはいえむかしの自分を知っている人に会えるお店というのはうれしいものだな、と思いました。
下北沢のセガフレードは、場所柄、役者さんやミュージシャンの方もよく利用していました。毎日見かける役者さんがいて、毎日同じ格好をしていて、こういうのを伊達男って言うんだな、なんて思ったりしていました。nicolasでライブをしてくれたことがあるミュージシャンに偶然会うこともありました。
他にも毎日わたしと同じ時間帯に利用している常連さんがいて、犬を連れているなにかの社長であろうという方や、近所の喫茶店のマスターもときどき見かけましたし、店員さんといつもおしゃべりをしている方も何人かいました。
コロナ禍に入り、今まで店内で喫煙できていたのが外のテラス席になり、常連さんの顔ぶれも少し変わってきていたように思います。下北沢の駅前は再開発の真っ只中で、区画整理のためにここが閉店することを店員さんから聞きました。移転ではなくて閉店だということ。真っ先に、毎日ここをコミュニティスペースとして使っていた常連さんたちのことが頭に浮かびました。
日々会っていた名前も知らないあの人たちと、もう二度と会うことはないのかもしれないということ。奇跡のような偶然が毎日当たり前のように起こっていたこと。なくなったときにそれに初めて気づく、それがカフェという場だと、悲観的ではない感覚で強く思っています。
・渋谷店
渋谷店は、2005年頃渋谷の文化村「ル・シネマ」でバイトをしていたときに毎日通っていました。早番のときは朝出勤前に、遅番のときは仕事後にカプチーノを飲んで煙草を吸っていました。朝はイタリア人のバリスタがいて、彼の淹れるカプチーノがほんとうにおいしかったことを覚えています。
渋谷のセガフレードは3階建てで、初期は1階が喫煙フロアでした。1階のそのフロアには、道玄坂で仕事をしている夜のお仕事の方々、不良外人、渋谷で買い物をしてきた若い人たち、文化村でお芝居や映画を観るような文化水準の高いご婦人方、そしてわたしのような渋谷で働いている人、ありとあらゆる属性の人々が渾然一体となっていました。
このときにわたしが感じていたことは、「ここはわたしに最適化された場所ではない。ここにお邪魔させていただいている。だからこそ、それが少し心地いい」というような、アンビバレントな感覚でした。ホームではないけれどアウェイでもない。普通に生活していたら決して交わらない人たちと場を共にして、ときには少しコミュニケーションもする。20代後半だったわたしにとってはとても貴重な体験だったと今あらためて思います。それこそ、文化村マダムたちは煙草を「呑む」と言って、とてもかっこよく煙草を吸っていらっしゃいました。憧れましたよ。
映画館のバイトを辞めたあとも、下北沢店と同様に、渋谷での映画やお芝居の前後によく訪れました。後期は、喫煙フロアが3階になったことが大きかったと思うのですが、マルチ商法系の方たちがたむろするようになってしまって、少し残念でした。すべての人に開いた場というものは維持することはできない。必ずといっていいほどリソースにフリーライドする人たちが場を占拠する。理想は絵空事で現実をしっかりと見たと思っています。
この頃から、喫煙と非喫煙が、飲酒と非飲酒がきっちりとゾーニングされはじめたように思います。仕方のないこと、あるいはなんてことのない棲み分けだと思うでしょうか。わたしは、店という場においてこれがいちばん大きな分断だったと、今でも思っています。
2026/03/24 12:59 | Category:Nibiiro
1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
3.吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)
4.食の記憶
思い出せる記憶のなかでいちばん古い、食にまつわる記憶はなんだろうと思い返してみた。
まだ当たり前にたくさん雪が降っていた長野の冬、雪の中にみかんを埋めて凍らせて食べたこと。春、学校帰りのたんぼ道、のびろを引っこ抜いて囓りながら歩いたこと。秋、銀杏を拾って教室の石油ストーブで焼いて食べたこと。
家族で外食をした記憶がない。家でも、家族団欒の食卓という風景があまりなかった気がする。どこの家庭でもおそらく大なり小なりある、いろいろな事情によって、家族揃っての食卓というものがあまりなかったが、そのことをさみしく思ったりもしなかった。食に執着なんてまるでなかった。
それでも、ひとつだけ好きな食べ物があった。母が家族のお見舞いに行くのについていって、帰りにファミリーレストラン(長野には、あっぷるぐりむ、というファミリーレストランがあった)で、コーンポタージュを飲ませてもらったのがとても嬉しかった。コーンポタージュはとにかくおいしかった。
小学生のときは、好きな食べ物はケーキだと言っていた。その理由は、いま思えばたぶん、ケーキが好きだと言うことがかわいかったからだ。まだ時代は昭和、ケーキが好きだとか苺が好きだと言うことは、女の子の特権だった。その女の子的なかわいさが好きだったので、ケーキが好きだと言っていたんだろう。ケーキが好きなかわいい男の子と思われたくてキャラ設定していただけだと思う。ただ、母が音楽教師だったことでバイオリンを習わされていたが、そのことを「やーい、おんなー」とからかわれることはすごく嫌で、音楽はあまり好きではなかった。(当時は、男の子がピアノ等を習っていると、女みたいだとからかわれるのがわりとデフォルトだったと思う。)
歌うのは好きだった。アニメの主題歌の女性歌手の歌(斉藤由貴、飯島真理、うしろゆびさされ組etc)が大好きで、ああいうふうに歌いたいと思っていた。まだ声変わり前だった。
中学にあがってからも、食にはまったくこだわりがなかった。嫌いな食べ物はない。でも、ものすごく好きな食べ物もない。両親は共働きで、母がつくった料理をチンして一人で食べることが多かった気がするが、これも、そのことについてなにかを思うことすらなかった。部活帰りにみんなでヤマザキの惣菜パンを食べていた普通の中学生だった。
この頃の自分にとって、食べることは特別なことではなかった。特に好きも嫌いもなく、長野の桃やりんご、ふき味噌やニジマスを食べていた。ヤマザキのパンと同じように。だからたぶん、小さな頃から星付きのレストランへ行って食事をするのが普通だった、みたいなフードブロガーの人が「この味最高!」とか言っても、その方と私では味覚の記憶がまったく違うはずなので、それをどうとも思わないし、田舎の自然の力強い野菜本来の味、みたいなことを「自然(ナチュール)最高!」な方たちに言われても、そんなご大層なものでもないと思ってしまう。
高校は、犀川を渡って市街地の学校に通った。長野駅前にはいろいろな飲食店があり、そこではじめて食に少し興味を持ったように思う。というより、高校生になって初めて自分で食べるものを選択できる状況になったんだと思う。母から毎日お昼代を500円ぐらいもらい、そのお金を切り詰めて貯め、遊びに使った。自宅から学校まで自転車で一時間。自宅の周辺はほんとうに田舎で、飲食店と呼べるような店はほとんどなかった。
外食は、家族とするものではなく、友人とするものだった。
駅前のミスタードーナツにたむろして、コーヒーとたばことドーナツを覚えたが、味がどうこういうのではなくて(もちろんドーナツは好きだったけど)、友人とたむろするのがただただ楽しかった。分別をわきまえている程度のくせに、不良ぶることがかっこいいと思っていただけだと思う。
友人と何度も酒を飲みにも行ったが、いつでも、飲んだ量の倍吐いた。下戸というのが、体質的に治らないものだということは、大人になってから本を読んで知った。当時は、飲めば強くなる、訓練すれば強くなる、というのが定説だったので、どんなに吐いてもやっぱり飲みには行った。実質、吐きに行っていたようなものだけど。
高校3年あたりから、バイトを始めた。先輩がたまり場にしていたピザ屋のようなバーで、デリバリーのバイトをした。ピザの味がどうだったかは覚えていないが、そもそもあんまりピザってものを食べたことがなかったのでうまいと思っていたと思う。
バイトをしてると、県外に進学した先輩たちがときどき帰ってくる。そのときにいろいろな話をしてくれた。ちょうど、高校の選択授業で食物を選択していて、なんとなく食の進路を考えるようになった。それにしたって、調理実習をするようなかわいい男の子に思われたかったようなやつが、県外に出る口実として大学以外の進路を探していただけだ。
大阪に行った先輩が、調理師の学校だけじゃなくて、お菓子の専門の学校もあることを教えてくれた。もうそこしかないと思った。東京に、製菓学校があることを知り、そこに行くことに決めた。東京で一人暮らしをするためのお金を貯めるために、猛烈にバイトをした。
製菓学校に行くことを決めたときにはじめて、お菓子の本を買った。最初のページから順番につくった。クラスメイトの中で、私のつくったお菓子を喜んで食べてくれる友人がいて、彼に疑似恋愛をしたような設定を自分の中でつくり、バレンタインにチョコレートケーキを渡したりした。お菓子は自分の中の女性的な願望を埋めてくれた。
1995年に、製菓学校へ行くために上京した。この頃、まだパティシエなんて言葉は一般的ではなかった。そんなものになるつもりはまったくなかった。ケーキ屋さんになるつもりだった。
専門学校の授業の内容もほとんど覚えていない。技術は相対的にまあまああるほうだと思った気がする。(SNSなんてない時代だったから、圧倒的にすごい人を見て自信を喪失するようなこともなく、ばかみたいに根拠のない自信を持っていたと思う。)東京と女の子に夢中だった。お菓子は、上京するための口実以上のものには、まだこの時点ではなっていなかった。実習の助手の先生に「ミスタードーナツが好き」と言ったら「えー?あんなものを?」とバカにされたことは覚えている。悔しかった。
専門学校のクラスメイトの女の子たちに誘われて、ホテルのケーキバイキングにいっても、ケーキの味や美しさなんかより、東京で、女の子たちに誘われてホテルのケーキバイキングに行く、というエピソードのほうに完全に酔いしれていた。ケーキのことなんてなにも覚えていない。覚えているのは、アパートの最寄りの駅まで一緒に帰ってきたクラスの女の子を、自転車で二人乗りして彼女の家まで送ったことぐらい。(このクラスの女の子がゆかさんです。)
専門学校2年のとき、その当時の彼女(専門学校の後輩)に、吉祥寺のケーキ屋さんに連れて行ってもらった。たぶん、このとき、はじめて「ここのケーキ、今まで食べたのと違う、おいしい」と思った気がする。ここに就職しようと思った。茶髪でちゃらちゃら遊んでる気持ちのまま面接に行ったら、社長に「お前さんはもう少ししてからもう一度来い。そのときにまだうちでやりたいと思っていたら」と言われた。
卒業後、しばらく立川の駅ビルの喫茶店でバイトをしてから、髪を黒くして再面接にいった。このケーキ屋では一度辞めて戻ってというのも含めて4年働いた。
「お前さんは職人になるな」社長から言われたこの言葉を、ずっと覚えている。
ケーキ屋で働くようになってからも、ケーキそのものへの興味よりも、ケーキ屋で働いている自分がどう見えるか、ということのほうが本質だった気がする。
喫茶店には、ボブカットでかわいい店員さんがいる。漫画やテレビなんかを見ていて、勝手にそういうイメージがあった。その子になりたかったんだろうな。とにかく女の子っぽくなることに全力を尽くしていた気がする。そのためにケーキ屋を選んだんだから。
専門学校の同級生が、渋谷のカフェで働いていた。借りてきた猫のようになりながらカフェに行った。カフェでの振る舞いなんてものはまったくわからず、緊張していて、場違いな話を夢中でしていたような気がする。
カフェというところにゆかさんにたくさん連れて行ってもらった。おしゃれな人たちがたくさんいた。ゆかさんと行った下北沢のカフェで、隣の席のカップルがすごく自然に振る舞っていてかっこよくて、お店にも馴染んでいた。私はとてもダサくて、おしゃれになりたい、あのカップルみたいになりたいと思った。カフェの料理の味はおいしかったのかどうかわからないが、おしゃれだった。

2026/03/17 12:40 | Category:Nibiiro
1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
3.吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)
最初に就職した吉祥寺のケーキ屋でのお給料は10万円ぐらいでした。そこから、小平のアパートの家賃54000円を引いたお金で毎月生活をしていました。日々の営業でロスになったケーキでおなかを満たし、どうしても足りない場合は実家に電話をしてお金を援助してもらいました。
そのケーキ屋にはサロン・ド・テ(喫茶)がありました。どこのケーキ屋でもたいてい最初からアトリエ(工房)には入れず、新人はまずは喫茶と販売をやるのが普通でした。もちろんわたしも喫茶からのスタートになりました。
喫茶にはアルバイトの大学生がたくさんいました。同年代のアルバイトの学生さんたちです。東京の、キラキラした大学生。ベネッセに就職が決まった落ち着きのある知的な女の子。彼氏が読んでいる三島由紀夫の「若きサムライのために」をわたしに薦めてくれた仙台出身の女の子。バイトのあとクラブに行って踊っている男の子。のちに就職氷河期と言われる時代のど真ん中で、「手に職を」と言われていた時代でしたが、大学生の子たちはみんな大人びていて、わたしだけが眩暈がするほど世間知らずで幼く、ふわふわしていました。
そのアルバイトの学生さんの中で、医大に通っている女の子がいました。わたしはその子と付き合うことになります。彼女の住んでいる部屋はとても広くて、そこでわたしはごはんを食べさせてもらいました。ハニーマスタードチキンという食べ物を初めて食べました。
彼女がお金をすべて出してくれて、北海道に旅行にも行きました。自転車も買ってもらったような気がします。彼女の部屋にはiMacがあって、彼女はポストペットという、メールをペットが運んでいってコミュニケーションをするソフト(?)をやっていましたが、わたしはパソコンを持っていなかったので、彼女はよく手紙を書いてくれました。彼女の部屋に入り浸ってごはんを食べさせてもらい、たまに自分の下宿に帰るとポストに彼女からの手紙が入っているんです。字がとてもきれいな子でした。
生活のお金が楽になったわたしは(給料も少しはあがりました)、小平から、吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区、道路を挟んで向かい側の住所は武蔵野市でした)へ引っ越しました。市外局番の「03」に憧れがあったからかもしれませんが、そもそも練馬区と武蔵野市では練馬区のほうが家賃が安かったからです。
吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区)に引っ越したわたしは、彼女そっちのけで遊ぶようになり、別れます。もう携帯電話(PHS)は持っていた気がします。ショートメールでユカさん(芸大を出た大阪のユカさんは、東京でテレビの仕事をしていました)や、今のゆかさんともやりとりをしたりしていました。
仕事も楽しくて、サロン・ド・テのキッチンの専属になり、スコーンを作らせてもらえるようになったり、ミルクレープを焼いたり、喫茶の仕事ももちろんやり、コーヒーや紅茶を淹れたりサンドイッチを作ったり。サンドイッチ用の食材をこっそり食べていて、注意されたりしていました。このときにすでに、アトリエにこもってケーキを作り続けるより、お客さんの顔が見える場所で仕事がしたいなと思いはじめていました。(というより、お客さんに顔を見てもらえる場所に居たかったんだと思います。)
長野オリンピックも終わり、1999年。ノストラダムスの大予言や「2000年問題」が世間では話題だった頃です。わたしは日本ダービーの馬券を当てて、そのお金でパソコンを買いました。ポストペットをやってはみましたが、もうペットを送る相手はいませんでした。小さなホームページをつくり、インターネット上で日記を書き始めます。東京ではすでにカフェブームが始まっていて、わたしは今のゆかさんに呼び出されて、渋谷や表参道、原宿、中目黒の深夜までやっているカフェに行くようになります。そこで、カフェとゆかさんに完全に心を奪われます。
ゆかさんは山田詠美が好きで、わたしは山田詠美の初期作品をいくつか借りて読みました。「この本が好きだというゆかさんは、どんな人なんだろう」というフィルターを通して読んだ『僕は勉強ができない』と『蝶々の纏足』は、超弩級の破壊力で、こんなの恋に落ちないわけがない。『蝶々の纏足』は中学生のときに教科書で読んだヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』の少女版のような物語でした。
ゆかさんは当時、渋谷の公園通りのカフェで働いていて、かわいくておしゃれで東京に馴染んでいて、わたしがなりたかった女の子そのものでした。カフェは、当時体育会系男社会だった飲食業において、唯一、文化系で女子的でした。
2000年になったとき、わたしは23歳、ゆかさんは24歳でした。

※wikipediaで「カフェ」を調べると「カフェの特徴」という項目で、建築家のクリストファー・アレグザンダーという人の言葉が出てきます。この言葉こそが、当時のわたしが、わけもわからずカフェというものに惹かれた理由だと思っています。以下に抜粋します。
『建築家のクリストファー・アレグザンダーはストリート・カフェの存在理由について、「人びとが衆目のなかで合法的に腰をおろし、移りゆく世界をのんびり眺められる場所としての機能」を挙げている。つまり、カフェは都市空間に溶け込むという都市生活者の潜在的な願望を叶える場所といえる。』
2026/03/10 13:49 | Category:Nibiiro
1.Sai River
2.1997年 別のユカさん
1995年、長野の高校を卒業して、東京の製菓学校に通うため上京しました。学校の近くにアパートを借り、電話を引きました。電話番号は、東京なのに市外局番が03ではなく、わたしは少しだけがっかりしました。
2年間で専門学校を卒業し、なんとなくすぐには就職できず(モラトリアムだったのです)、20歳のわたしは喫茶店でバイトをしながら、東京に馴染むための日々を送っていました。夏に長野に帰省し、大阪の芸術大学に進学した先輩に再会します。先輩の名前は「ユカさん」と言います。わたしの通っていた高校は元女子校で、わたしが入学した当時は男女比が1:4でした。ユカさんは高校時代から大人びていて、『女子校の王子様』のような人でした。例に漏れずわたしも憧れていたのですが、大阪に行って更に垢抜けてエロかっこよくなっていて、話すときに緊張してしまうぐらい大人の女性になっていました。わたしの高校時代のバイト先であるピザ屋のようなバーで再会したのですが、そこで知人から「なんかユカさん、おまえなんかのことがお気に入りらしいよ」とふてくされて告げられました。ユカさんから「大阪あそびけーへん?」と誘われ(ユカさんはすっかり関西弁を身につけていて、それもまたかっこよかった)、ユカさんの下宿へ遊びに行くことを決意しました。
高校時代、わたしは友人から「おかま」とからかわれるぐらい、女の子になることを目指していました。私服高校だったのですが、ボーイッシュな女の子のような格好をしたくてオーバーオールを着てみたり、ヴィジュアル系バンドに誘われてからは髪を伸ばして後ろで結び、黒で襟元の開いた鎖骨の見える服を着たりしていました。お酒に酔った同級生がふざけてキスをしてくることも満更でもなく思っていて、その友人に彼女ができたときには「オレのほうが可愛いのに!」と嫉妬したりしていました。
そんなわたしでも彼女はいました。ただ、高校生の恋愛、携帯もインターネットもない時代の田舎の町です。今のようにジェンダーも分類されていなかったので、わたしは「わたしは女の子になりたいのに女の子のことが好きなのはおかしいんじゃないか。男の子を好きになるのが普通なんじゃないか」とよくわからない悩みを抱えていました。彼女から男を求められたときに、自分の中から男をどう出力すればいいのか全然わからず、周りの友人の見よう見まねで、でもそれが全然上手くできず、付き合いは長く続くことはありませんでした。きっと今の時代にわたしが若者だったら、「男の娘」になり、お化粧して可愛い格好して、インスタに自撮りをアップしていたと思います。
それを見かねたリーダー格の友人が、卒業間近に、とても経験豊富な女の子をわたしに紹介してきました。今思えば、この友人はわたしが「男にならない選択をする」ことを本当に心配していたんだと思います。男らしい友人でした。この古き悪しきホモソーシャルのしきたりのようなものを、今では余計なお世話と思う人もいるでしょう。でもわたしは、女の子に導かれるまま長野の繁華街のラブホテルへ行きました。緊張して全然上手くいきませんでしたが、わたしも女の子も、友人の顔を潰さずに済んでほっとしていた気がします。
そんなわたしが、ユカさんの下宿に遊びに行きます。一度東京に戻ってから、新幹線で大阪へ向かいました。新幹線の中で読むために、大阪出身の喫茶店のバイト仲間が「たぶん絶対好きだと思う」とおすすめしてくれた、中島らも「白いメリーさん」の文庫本を買ったことを覚えています。たぶん新大阪駅で待ち合わせをしたんだと思います。わたしはまだ携帯電話をもっていなくて、ポケベルだったのか、あるいはPHSを持っていたのか、記憶は定かではありません。ユカさんの下宿に着き、テレビをつけると吉本新喜劇がやっていて、ああここは大阪なんだなと感激しました。ユカさんの部屋で煙草を吸い、ユカさんが撮ったという写真を見せてもらうと、そこには半裸でベッドに座るユカさんの写真もあって、どぎまぎしました。遊びに行って何泊かしました。
ユカさんの芸大での友人の女の子たちが複数人で一軒家を借りで住んでいて、そこでケーキを作ったりもしました。ユカさんは誇らしそうに「な? かわいいやろ?」と友人たちに言っていました。ユカさんは過剰にわたしを「かわいい」と言ってくれた人で、女の子同士のコミュニケーションで、お互いをかわいいと言い合うあの感じだと思っていました。たぶん3泊ぐらいしたんだと思います。わたしは楽しくて、特別扱いされていることがうれしくて、その楽しさと特別扱いが壊れてしまうような気持ちだったのかな。今思い返しても完全にバグってるんですが、自分のことを女子校の王子様に対しての「百合要員」だと思っていたんだと思います。ユカさんに何かをすることができませんでした。(このときのわたしが、「百合に挟まる男は死刑」という価値観を知っていたはずがないのですが、本能でたぶんそれを感じ、女性の人格のわたしとユカさんの関係を、男性の人格のわたしが邪魔することが許せなかったのかもしれません。)
東京に帰る日、一緒に京都を観光しました。知恩院の男坂・女坂、銀閣寺の哲学の道。中学の修学旅行で行った場所が、全く別の場所のようでした。銀閣寺で、ユカさんが「一緒に写真撮ろ」と言い、わたしは軽い気持ちで「えー、いいよー(否定の意)」と答えると突然ユカさんは怒り出し、口をきかなくなりました。無言のままバスに乗り、京都駅に着き、ぴかぴかの駅ビルの前で最後にユカさんが「こんなの造って京都の景観が悪くなるからって、銀閣はここのホテル泊まってる人は入れません、ってやってるんだよ」と言いました。
帰りの新幹線、わたしは「白いメリーさん」のページを、頭に言葉が一言も入ってこないままめくり続けていました。「白いメリーさん」には「ラブ・イン・エレベーター」というすごく短い短編が収められています。それは、東京へ戻るわたしの心境そのもののような物語でした。東京に戻ったらちゃんとケーキ屋に就職しようと思いました。
30年前のこと、今のゆかさんとは別のユカさんとの話です。

(「白いメリーさん」はもちろんnicolasにあります。今奥付を確認したところ、1997年8月15日に第1刷発行と記載されていました。「ラブ・イン・エレベーター」はコーヒー1杯飲むあいだに読み切れるぐらいの短い物語です。よかったら読んでみてください。)
2026/03/03 14:04 | Category:Nibiiro
1.Sai River
市街地へ出るにはSai Riverを渡るしかなかった。

戦国時代、山に囲まれた盆地であるこのあたりは、武将たちの陣取り合戦がたびたび行われていたそうだ。深い霧の中Sai Riverを渡って奇襲をしかけた戦があり、その戦にはわたしたちが住む土地の名が冠されていて、それはわたしたちのアイデンティティになっていた。桃をつくること以外に何もない、物理的にも精神的にも平坦な土地だった。
中学校で同じクラスの好きな女の子が、市街地の高校へ進学する話を耳にした。わたしには少しレベルの高い高校だったけど、無理ってほどではない高校だった。わたしは、Sai Riverを渡る決心をした。
無事に志望校に合格し、市街地の高校へ通うようになったわたしは、市街地の繁華街の引力に吸い込まれた。中学のときに冒険するような気持ちで行った駅前のファッションビル。その通りから一本脇に入ったすぐ裏には、高校で同級生になった友人の家があった。市街地の人たちは、わたしたちのことを「川向こう」と呼んだが、呼ばれているこちらは無自覚で、そこまでなんとも思わなかった。吸っている煙草がマイルドセブンなのかセブンスターなのか、そのぐらいの違い。それが蔑称だったと気付いたのはだいぶあとになってからだった。
駅前のドーナツショップにはわたしの高校の先輩やバンドマンがたむろしていて、わたしよりも年上だけどまだ未成年である彼らはいつも堂々と煙草を吸っていた。わたしは背伸びをしてその輪に加わり、彼らとは違って少しびくびくしながら煙草を吸うようになった。
バンドのメンバーに入れてもらったり、無免許で原付に乗って捕まり家庭裁判所にいったり、免許を取ってからはピザのデリバリーのバイトをしたり、恋をしたり、Sai Riverを渡った先で起こっていた出来事は、わたしにとってはフィクションのようなものだった。
市街地から、ひとりSai Riverを渡って川向こうの側に帰ってくるとき、橋を渡りきるそのときに魔法がとける感覚を味わっていた。街灯もない夜道、顔をあげれば真っ黒な山がすべてを取り囲んでいた。
家に着いたわたしは家族に手土産のドーナツを渡し、部屋にこもって音楽を聴いた。二階へ上がる階段の下の小さな部屋で、道路に面していたけど深夜に車は一台も通らず、家の駐車場のトタン屋根の上に落ちる、杏の実の音だけが現実の世界の音だった。
2026/02/24 13:55 | Category:Nibiiro
nicolasは今年の5月1日で15周年になります。
毎年、周年には文章を書いてきました。15周年の文章は、毎週火曜日の定休日の午後に、少しずつ出していこうと思っています。周年まであと11週あるので、このブログの次、来週の火曜からはじまって全10回です。
15年前、最初の頃は一生懸命ブログを書いていました。20代の前半ぐらいから文章を書くことを始めて(インターネットに日記を書いていました)、お店をオープンした30代半ばのわたしには、伝えたいことがたくさんあったんだと思います。
今はもう伝えたいことなんてものは、感謝以外はほとんど何もなくなってしまったのですが、文章を書く習慣だけは続いていて、今はただ、なにか物語を編めたらいいなと思って、日々の隙間の時間にもたもたと言葉を書き連ねています。
そうこうしているうちに、例えるなら、お店のメニューとしては出せない試作品のような文章が、まあまあ、たまってきてしまいました。
実はわたしは、自分の書いた文章が好きなんです。もしかしたら、作っている料理よりも、文章の方が好きかもしれません。むかし書いた文章を読み直していたら、いい文章だなと思えるものがいくつかありました。
作った料理(文章)を捨てるのも忍びないので、それを出しておこうかな、と思います。「まかない」のようなものなので、そんなにちゃんと推敲もしていませんが、まあそういうもんだと思って、よかったら暇つぶしにでも読んでください。文章の断捨離、というか、もしかしたら終活みたいなものなのかもしれません。歳をとると、やっぱり昔話をしたくなるんだな、みっともないことだけど仕方ない。
まもなく50歳になるわたしから見て、若さと執着、情熱のようなものが、ああ、これはもうこの先書けなくなるものなのかもしれないな、と眩しく感じた文章。鈍色が眩しすぎて目を開けていられない。
一応続きものとして物語っぽく読めるように組みました。
楽しんでいただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。
2026/02/17 16:48 | Category:Nibiiro