6. 認知について
6. 認知について
最近考えている「認知」について書いておこうと思います。
私は今年50歳になります。飲食業の人間としては、もともと体力に自信がなく、コツのようなものを掴んでなんとかやってきました。
ここのところ、思うように身体が動かず、イライラすることが増えてきました。自己嫌悪のような感情です。その状態で、「なんで怒ってるの?」と言われると、「いや、これは怒るという感情ではなくて自分に苛立っているんだ、この状態を形容するのに、怒るという言葉は的確ではない」と、怒ってしまいます。ほんとにしょうもないですね。
認知の最初の歪みは、「他意のない言葉に悪意を感じてしまう」というケースが多いと自分は感じていて、翌日よくよく考えてみると、ああ、あれはそういう意味じゃなかったのかもしれない、と反省することがよくあります。今まで負の感情は、理性でなるべく抑えるようにしてきました。その理性のストッパーが緩んできているんだな、と自覚しています。
親も高齢になってきて、「あ、少し認知があやしくなってきたな」と、話していて感じることも増えてきています。人生の残り時間が少ない人と話していると、ここからあとはできるだけ自分に正直で居たいという感情はとてもよく理解できます。言葉の精度も、少しいい加減なまま話をしていて、それはもうそういうものだと思えます。
そして、「素晴らしい人生だった」と「しょうもない人生だった」が嘘偽りなく両立することもわかるようになりました。いい認知、いい記憶のまま終わることができたら幸せだけど、最後はどうなるのかはコントロールできるようなものでもないですしね。
高齢者の比率が高くなった社会というのは、感情制御のストッパーが効きにくくなっている社会なんだと思います。
これまで私は、言葉を大事にしてきたと思っています。でも、これからは少し言葉をゆるく捉まえたほうがいいのかな、とぼんやり考えています。(それはもしかしたら、AIの言葉・自動翻訳の言葉などの、正確ではない言語の文字列を見てなにを言わんとしているかを判断するときのゆるさ、に近い感じかもしれません。)
あんなに楽しくて、夢みたいで、大好きだったことを忘れたくないな。でももう、実はほとんど忘れてしまっているのかもしれない。断片を繋ぎ直して、全く違う記憶を思い出しているような気もします。
もう、わたしの記憶なのかゆかさんの記憶なのか、わたしにはわからないんです。
2026/03/31 14:21 | Category:Nibiiro
