8.父の足

1.Sai River

2.1997年 別のユカさん

3.吉祥寺(の駅から徒歩25分の練馬区) 

4.食の記憶

5.セガフレード・ザネッティ

6. 認知について

7.1996年のゆかさん

8.父の足

 わたしの父は、大学のときにオーケストラで海外へ行った、というのが一生の自慢で、常に周りを見下して生きているようにわたしには見えました。人付き合いが絶望的に下手で(それは当時の田舎では致命的でした)、仕事を転々と変え、最終的には自動車の部品をつくる工場に落ち着いていました。わたしが思春期の頃です。
 父は仕事から帰ってくると汚れた作業着を洗濯機に入れ、自室に籠ってクラシックを聴いていました。わたしが夜中にトイレに起きると台所にひとり座っていて、「あんなバカなやつらとは話にならない」と言いながらNewtonを読んでいたり、「木曽の曽に、根っこの根です」と、面接の受け答えの練習をしていたりしました。幼心に「こいつあかんやつや」と思っていましたが、今思えば父はこの頃40代、今のわたしより年下です。そんなもんだよな。携帯もインターネットもない時代の田舎の町で、周りの人の見よう見まねで、でもそれが全然上手くできず、それでも父親をやったんだと思います。
 音楽やってたインテリ青年が、レールに従って見合い結婚し、挙げ句、息子はおかまで娘は視覚障碍者、そりゃ無理ゲーってものだと思います。

 コロナ禍中、父は大病を患います。半年で、あっという間に亡くなりました。コロナ禍だったのでずっと面会ができず、やっと面会できるようになったのは、病院からホスピスへ移り、もう延命治療を一切しない状態になってからでした。父は薬で昏睡状態でしたが、ホスピスの方が「息子さん来ましたよ」と声をかけたら一瞬意識が戻り、わたしを見て「ゆっくりしていけよ」と言いました。(わたしはバカだからいい歳してコロナ禍のとき髪を青く染めていて、父が最後に見たわたしは青い髪をしていました。)
 父が元気だったころ、わたしが帰省すると必ず父は「いいだろう信州の自然は。ゆっくりしていけよ」と言っていました。三島由紀夫の『美しい星』なんか読んで小賢しくなったわたしは「自然はおまえの所有物じゃねえよ」と悪態をついていました。
 ゆかさんが、ベッドに横たわる父の足をみて、「足の裏、一緒だね」と言いました。父の足の裏なんて初めて見ました。親指の爪は巻き爪で変色していて、小指の付け根には大きくて分厚いウオノメがありました。飲食業でずっと立ち仕事をしてきた、わたしの足と一緒です。なんだ、からだを使って一生懸命生きた人の足じゃないか。

 父はリタイアしてからも、介護の仕事をしたり、高速道路の料金所の仕事をしていたそうです。普段は家の前にある小さな畑で、さつまいもやトマトを作っていました。病気が見つかる直前に、「もう少しちゃんと畑をやる」といって小さなトラクターを買ったばかりでした。祖父と父は全く似ていなかったけど、父もよく麦わら帽子を被っていた気がします。父は祖父に憧れていたのかもしれないな。祖父は、軍隊でラッパを吹いていたそうです。
 父はさつまいもを何度かnicolasに送りつけてきて、その不細工で不揃いなさつまいもで、わたしはニョッキを作りました。ニョッキはめんどくさくて、「もう二度とやらない」と、わたしは強く思いました。

父だけは、けっきょく一度もnicolasには来ませんでした。