1. Sai River
1.Sai River
市街地へ出るにはSai Riverを渡るしかなかった。

戦国時代、山に囲まれた盆地であるこのあたりは、武将たちの陣取り合戦がたびたび行われていたそうだ。深い霧の中Sai Riverを渡って奇襲をしかけた戦があり、その戦にはわたしたちが住む土地の名が冠されていて、それはわたしたちのアイデンティティになっていた。桃をつくること以外に何もない、物理的にも精神的にも平坦な土地だった。
中学校で同じクラスの好きな女の子が、市街地の高校へ進学する話を耳にした。わたしには少しレベルの高い高校だったけど、無理ってほどではない高校だった。わたしは、Sai Riverを渡る決心をした。
無事に志望校に合格し、市街地の高校へ通うようになったわたしは、市街地の繁華街の引力に吸い込まれた。中学のときに冒険するような気持ちで行った駅前のファッションビル。その通りから一本脇に入ったすぐ裏には、高校で同級生になった友人の家があった。市街地の人たちは、わたしたちのことを「川向こう」と呼んだが、呼ばれているこちらは無自覚で、そこまでなんとも思わなかった。吸っている煙草がマイルドセブンなのかセブンスターなのか、そのぐらいの違い。それが蔑称だったと気付いたのはだいぶあとになってからだった。
駅前のドーナツショップにはわたしの高校の先輩やバンドマンがたむろしていて、わたしよりも年上だけどまだ未成年である彼らはいつも堂々と煙草を吸っていた。わたしは背伸びをしてその輪に加わり、彼らとは違って少しびくびくしながら煙草を吸うようになった。
バンドのメンバーに入れてもらったり、無免許で原付に乗って捕まり家庭裁判所にいったり、免許を取ってからはピザのデリバリーのバイトをしたり、恋をしたり、Sai Riverを渡った先で起こっていた出来事は、わたしにとってはフィクションのようなものだった。
市街地から、ひとりSai Riverを渡って川向こうの側に帰ってくるとき、橋を渡りきるそのときに魔法がとける感覚を味わっていた。街灯もない夜道、顔をあげれば真っ黒な山がすべてを取り囲んでいた。
家に着いたわたしは家族に手土産のドーナツを渡し、部屋にこもって音楽を聴いた。二階へ上がる階段の下の小さな部屋で、道路に面していたけど深夜に車は一台も通らず、家の駐車場のトタン屋根の上に落ちる、杏の実の音だけが現実の世界の音だった。
2026/02/24 13:55 | Category:Nibiiro
