何者。

朝井リョウさんの「何者」を読む。

まったく一体、朝井リョウという人は何者なんだ。23歳(ぐらい)の若さで、これが書ける人ってのは、なんだかもう、怖いぐらいにすごい。ひとまわりも年下の若者に、いい歳した大人の虚栄心を見透かされて嘲笑われる、僕たちの羞恥プレイ。朝井リョウさんという人は、「“何者”かになれた観察者」なんだろうな。

「ダサくてカッコ悪い自分を認めてあがくこと」は、カッコ悪くない。
早川義夫さんのように、それを教えてくれる年長者はたくさんいるけど(僕にとっては大槻ケンヂが最初だったと思う)、よもや「まだ社会に出たばっかりの、このヒヨッコが!」という年齢の若者に説教されるとは思わなかった。だから、余計に刺さった。「オッサン、いつまでそんなことやってんの?カッコつけて俯瞰してるのって、すごいカッコ悪いんですけど。」て、言われてるみたい。
水道橋博士の「藝人春秋」でも、甲本ヒロトが、
「『ステージ上で唯一やっちゃいけないことがある。それはカッコつけることだ!』って言われた気がしたんだ!」
と言っていて、何者かになれた人たちでも、やっぱり誰かに「カッコつけることのカッコ悪さ」「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」ということを教えてもらっている。
それでもやっぱり、カッコよくなりたい。「カッコいいなー。いいなー。」って憧れられたりしたい。「何者のしっぽ」を掴みたくて、何者かになれた彼らに憧れるのだから。

僕たちは何者かになれるのだろうか。
若い頃の自分から見れば、自分たちでお店を構えるなんてことは、「何者」そのものだったと思うのだけど、結局自分は自分でしかなくて、何者でもないとしか言いようがない。
「カフェってオシャレ気取りだけど中身はうすっぺらいんでしょ、どうせ。ちゃんと読んだこともないようなビジュアル重視の洋書とか並べてるんでしょ、どうせ。どこそこ産の食材を使ってますとか言ってバイトでも作れるようなスパゲティ出してるんでしょ、どうせ。」
というように見られるのがしゃくで、日々あがいているのだけど、カッコ悪いかな。カッコいいカッコ悪さに見えているのかな。

それが、カッコいいことなのか、カッコ悪いことなのか。その判断基準は、やっぱり重視してしまう。
シンクロナイズドスイミングの選手みたいに、水面下では壮絶なバタ足が続いていようが、水面上では涼しい顔をしていたい。陰でどれだけ努力をしているのか想像すらできないけど、小嶋陽菜のように「えー?なんですかー?」と、しれっとしていたい。こじはるになりたい。
よし、メグたんみたいな魔法使いになろう。ニコラは、みんなをしあわせにする魔法使いなのです。