僕はいつだって何かの引用なしに、自分の気持ちをうまく説明できない。

樋口毅宏「日本のセックス」「テロルのすべて」を読む。

5歳年上のこの作家さんと、僕は、同じ音楽を聴いて、同じ映画を観ている。それほどのタイムラグなく、同じものを通過している。そんな、小沢健二と園子温を愛する樋口毅宏作品が、僕の肌に合わないはずがない。「新刊が出たらすぐにでも読みたい作家」に、久しぶりに出会いました。僕もまた、愛すべき映画や小説や音楽からの、そしてお店や料理からの(愛のある)引用なしでは、自分の思っていることをうまく表現できない。だって、それらで僕は出来ているのだから。僕と樋口毅宏は、10%ぐらいは同じもので出来ているんじゃないかと錯覚するぐらい。樋口毅宏、素晴らしいです。

そんな、共感というか喜びの中で、やっぱり寂しさを感じてしまうのは、「音楽、文学、映画」はそれぞれリンクして相乗効果を生むのに、そこに、そこまで「食」が入っていけていないところ。「食」のほうがお高くとまって入っていかないのか、もしくはその逆で、低く見られて入れてもらえないのかはわからない。多分両方なんだろうけど。サニーデイと「アイデン&ティティ」と樋口毅宏は手を取り合うことができているのに、どうしてそこにいけないのだろう。
もちろん、池波正太郎作品のように、食を取り扱った作品はいくつもあるし、川上弘美の、作品への食の忍び込ませ方なんかはとても好き。やまだないとの「西荻夫婦」もいいし、伊藤理佐の「おいピータン!!」は本当に最高だ。ただ、上手に忍び込ませることができる人はやっぱり稀で、他の多くの作品のそれは、なんか「特別感」が出てしまっている。「どうです?こんな店、こんな食事、素敵でしょう?」みたいな、いやらしさが。そしてそもそも、固有名詞として入っていけていない。「サニーデイ・サービス」が固有名詞で登場するのなら、カフェだってバーだって固有名詞で登場したっていい。藤谷治さんの作品には見られるが、あれは「下北沢」という特殊な文化圏においてのことで。「ドゥ・マゴ」や「エル・ブジ」のような高尚なものではなくて、多くの人の(あるいは一部の人の)日常に根付いたものが、そこに参加できると嬉しい。好きなカフェが、好きな小説にでも出てきた日には狂喜乱舞する。
正直に言えば、いくつかはある。「あの映画の撮影したの、あの店だよ」というお店もいくつか知っている。それがおおっぴらになることを店側がよしとしないのは、ミーハーになってしまって、食そのものを見てもらえなくなるというリスクが常につきまとうからだということもわかっている。熱狂的なファンを持つバンドのPVを撮影したために、連日無礼なファンが押しかけてきてしまう店もある。

それでも、この映画が好きでこの作家が好きでこの音楽が好きだったら、絶対この店気に入るよ!っていうのが、増えるといいなと思う。高田渡と吉祥寺のいせやのような関係の店が。川上弘美好きが好きな店、曽我部恵一好きが好きな店、ウディ・アレン好きが好きな店。

園子温と樋口毅宏好きが好きな店、ってのは、ちょっといかがなものか、とも思いますが。