言葉と物語。

最近、言葉が信用できない。
言葉の不完全さを補うのは声なんじゃないか、とか思っている。
だから、しゃべり始めると止まらなくなるくらいしゃべってしまう。
たくさんしゃべって、なにを言ったかあんまり覚えていない。
なんだ、声も信用ならないな。

今は、わからない言葉はネットでしらべればだいたい出てくる。
だからみんな、専門分野にとても詳しい。
素人だかプロだかわからないぐらい、とにかく詳しい。
会話のなかでも固有名詞や専門用語がふつうに飛び交う。

なんというか、同じ言語で話してるはずなのに、言葉が通じない。
どこまでもどこまでも細分化されたジャンルに分断されて、
となりの人と言葉が通じない。
人とコミュニケーションをとるのに向かない言葉ばかりが、
どんどん増えていっているような気がして、
言葉を知っているかどうかでふるいにかけて、
すごく小さなコミュニティをたくさんつくってしまっている。
言葉は、人を繋げるものだったはずなのに、
言葉は、人を分断するものになっている。

料理を作るときに、テーブルに食材を並べる。
すべての食材に物語がある。野菜も肉も、パスタやオリーブオイルも、
誰かが作っている。それが誰かに運ばれて、ここにある。
その、物語の重さに、ときどきぞっとする。重すぎる。
食材だけじゃなくて、まわりを見渡せば、
本、音楽、家具、身に着けているもの、そして人。
物語を内包したものたちが視界を埋め尽くしている。
すべてのものに、人に、物語はある。
物語は、人生を豊かにするものだったはずなのに、
物語があまりにも多すぎて、窒息しそう。

言葉と物語は、とても大事にされる。人生を一変させるようなものもある。
だから、それを知っている人たちは、それを使っていろいろなことをする。
いいことばかりではない。
言葉と物語を悪用する人もいる。
気をつけなければいけない。
誰が、いつ、誰に向けて言った言葉かで全然違う。

今の僕が、信用している言葉がある。
その言葉は、僕の身近にいる人が、酔っぱらって僕に言った言葉だ。声だ。
その人と僕の物語があったうえでの言葉だ。
ここにはその言葉は書かない。
なぜなら、その言葉は僕にしか作用しない言葉だからだ。

本当に大事な言葉と物語は、とても個人的な、普通のものだと思う。