無題。

「食の安全」に対しての正しい知識が欲しいので、時間があるときには調べたりしています。今まで以上に、これから先は、プロとして食品を提供する側の僕たちにとって避けては通れない問題だと認識しています。調べれば調べるほど、不安な気持ちになってしまうのですが、「いやあ、そんなこととは知りませんでした」とは言えないので調べます。どの方が言っていることが正しいのか、取捨選択できるように。

震災前にお会いしてお話させていただいた農家の方々の、現状が、とても心配だったりもします。人の心配してる場合じゃないのですが。思っていても言葉にできないこともあります。生産者と消費者の間にいる、僕たちの葛藤。

結局、できることを最大限やる、しかなくて、みんなが普通に楽しく外でごはんが食べられるように、僕たちはやる。楽しくやる。誠実に。この国の先行きを憂うのではなくて、猥談や愚痴なんかを撒き散らしながら酒を飲んでもらいたい。

僕がいつか、テレビで喋って影響力のあるようなイケメンシェフになったなら、そういうこと言いたい。

おしらせ。

明日7/28(木)は、誠に勝手ながら
16:00~
の営業とさせていただきます。
ランチはお休みとなります。

申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。

メリーアン。

よく、お店をバンドに例えたりします。
「外から見るとピカピカなんだけど、中はだいたいボロボロだったりするんだよ」
というようなことを、喫茶店のマスターが言っていたのをよく覚えています。
いしいしんじの「麦ふみクーツェ」では、オーケストラでの“シンバルの人”の大切さを説いていました。

基本的にはサービスがボーカルで、厨房がリズム隊だと思います。華があって歌唱力のあるボーカル(サービス)と、安定した高い演奏力を持つ縁の下の力持ち的な鍵盤兼プロデューサー(料理人)みたいな、ドリカムやピチカートみたいなユニット(店)だったり、偏屈な店主が一人で我が道を進む井上陽水・泉谷しげる的な店だったり。たまに楽曲提供とかしたりしてね。バンドの体を成してはいるけれどワンマンバンドで、「音楽性の違い」により解散したあとソロデビューしたものの、実はバックに支えられていたことに気付き再結成、みたいなこととか。大槻のボーカルは、橘高のギターとエディのピアノによって引き立っているのですね。いや、内田くんのベース&コーラスも、本城のギターも欠かせないな。やっぱり筋肉少女帯には敵わないなー。中央線沿線には、ゆらゆら帝国みたいな店がわんさかあったりしますね。大好きです。

で、じゃあnicolasはなんだろうっていうと、

・・・アルフィー?
全員歌ってるし。熾烈な高見沢争奪戦が繰り広げられること必至。

ダチョウ倶楽部を目指して頑張ろうと思います。絶対押すなよ!

おしらせ。

7/19(火)、20(水)は定休日のため、nicolasお休みをいただきます。

7/24(日)は貸切のため、
13:00~18:00
の営業とさせていただきます。

申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。

ひんしゅくを買う。

高橋源一郎・山田詠美「顰蹙(ひんしゅく)文学カフェ」を読む。デビュー時に世の顰蹙を買ったお二人が、世の顰蹙を買った作家を招いて、もう一貫して「顰蹙を買わないような作家はダメだ!」という流れ。

今の世の中、こういったいい意味での顰蹙を買うのって難しい。非難はいくらでも浴びますが。
樋口毅宏の「さらば 雑司ヶ谷」を読んだときに「あ、阿部和重だ」と思ったのですが、阿部和重が「アメリカの夜」や「インディヴィジュアル・プロジェクション」を書いた10年前とは時代が違う。果たして今の世の中で、樋口毅宏が顰蹙を買うことができるのかどうか、少し不安になりました。園子温の「冷たい熱帯魚」を観たときと同じような不安。これで顰蹙買えなかったらもうお手上げ、みたいな感じ。

高橋源一郎が言う、
「もうずっと前から『文学』なんかどこにもなくて、ないのに、『文学』『文学』とか言ってるとか思われて、『あんた、終わってるよ』っていう視線を浴びてるのに気づいてないのかも、って思わない?」
の、文学って、文学だけじゃなくて、音楽だって映画だって、それこそ食だって一緒。ネットがあってコンビニがあれば、誰ももう文学なんて読まないし、ライブハウスや劇場映画館にも足を運ばないし、外食だってしないし酒も飲まない。
そんな現状を認識した上で「上等だよ!オレが文学だよ!」と言い切る姿に共感します。リリーさんと澤口シェフの「架空の料理空想の食卓」で「飯を食いに行くというより、オヤジの無理を見に行くという感じ」とリリーさんが言ってるのと同じ感覚。

nicolasも「上等だよ!」なんてそれこそ上等なことが言えるように、一歩ずつ一歩ずつそんな顰蹙を買っていければいいな、などと思います。
あ、非難はしないでください。打たれ弱いんで。

ピーターと狼。

小澤征爾指揮、ボストン交響楽団の「プロコフィエフ:ピーターと狼」が親父から届く。何かとクラシックのCDを送りつけてくる父なのですが、これは聴く。
なにがすごいって、全編を通して小澤征爾のナレーション付き。「小鳥とアヒルが口ゲンカをしています」とか言って、フルートとオーボエの演奏が始まったりします。征爾、若い。オザワくんがもし、こういうのやったら、買います。

小さい頃、何か音楽がないと眠れない子で、この「ピーターと狼」も聴いていた記憶があります。「狼が出てくると怖いから(ちなみに狼はホルン)、狼出てくる前に寝なくては!」とか思いながら。ただ、この小澤征爾のものは1992年に録音されたものなので、僕が聴いていたのは別のものなのかも。親父が楽器をやっていて、おふくろは音楽の先生だったので、なんだかよく知りもしないで上質な音楽に触れていたのだなあとしみじみ思ったりします。結局なんだかよく知りもしないで今に至っていますが。

ちなみにこの「ピーターと狼」は、ウソつき狼少年のあの物語とは全く別の物語で、ピーターが仲良しの動物たちと一緒に狼を捕まえる、という話です。
ほんとだよ!ウソじゃないよ!

闘鶏。

先日、長野県は飯綱で、地鶏と軍鶏を育てている生産者の山浦さんがはるばる軍鶏を食べにきてくださいました。

http://shinanonouen.naganoblog.jp/e766262.html

僕のような、まだまだ未熟な青二才のところにまで足を運んでいただいて感激。恐縮です。しかしながら、生産者を目の前にしてその料理を出すとなると、かなり緊張。
「オレが丹精込めて育てた愛する息子たちを、お前がどう料理してくれるのか見せてもらおうか!あん?」
とは言いませんでしたが、そういうことです。山浦さんとこの軍鶏はほんとにうまいので、僕さえ余計なことしなけりゃ間違いなくうまいはずなので。

お世辞ももちろんあったと思いますが、
「幸せです。」
というお言葉をいただきました。山浦さんに幸せですなんて言っていただけたら、そりゃあもう僕も幸せです。泣きそうになりました。これを励みにより一層頑張っていきたいと思います。

今度はこちらから、飯綱の山浦さんの農園を訪ねて、で、山浦さんの軍鶏とガチでたたかってこようかと思います。かなり強いと思います、軍鶏。

 

おしらせ。

6/26(日)は、誠に勝手ながら
13:00~18:00
の営業とさせていただきます。
(出張ケータリングのため)

申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。

野村の見立て。

友人が出版に携わった「野村の見立て」を読ませていただく。野村とは、ご存知名将・野村克也、ノムさんの本です。

「今、超大御所の本の出版に関わってるんだけど」という前振りをいただき、「王!長嶋!辰徳!達川!」と、僕の知りうる大御所を羅列したところ、
「普通、王、長嶋ときたらその次ぐらいに名前が挙がる人だよ」
と言われ、ずっと気になっていたのですが、よもやノムさんとは。すごいですね。

僕も昭和生まれの男の子ですので、小さい頃の夢が当然のように「野球選手」だった時期があります。当時僕はカープのファンでした。赤が好きだったもので。カープがほんとに強かった時期で、北別府、大野、川口に、炎のストッパー津田。慶彦、山崎隆、小早川、浩二、衣笠。そんな時代でした。
いつしか野球とも疎遠になっていたのですが、ウチの嫁のお父さんが大のヤクルトファンということもあり、ゴマをする意味も含めて件の友人にいろいろ野球のことを教えてもらったりしていました。神宮球場にも何度か足を運んだり。(しかしながら、なぜか毎回レフトスタンドでC前田さんに狂喜乱舞していたり。)いや、慎也のショートは日本一ですよ。

ノムさんの考え方は、ジャンルを問わず説得力がありますね。やっぱり。
「実力(才能)の足りないヤツは、その分アタマを使わないといけない。」
これは、実力をつけるための日々の鍛錬が大前提の上での話で、「ノムさんはクレバーで精神論をバカにしている」という方もいますが決してそんな訳はなく、「アタマを使うことを放棄した人が言う精神論」が嫌なだけであって、「アタマを使った上での精神論」は決して否定していないと、僕には読めました。
ノムさんが落合監督を買っているのがなんだかよくて、「オレの成績を超えてから文句言え」のくだりにはちょっとしびれました。

ノムさん、落合に共通して言えることは、奥様が、アレですね、カカア天下ですね。むかしソクラテスは「悪妻をもらえば哲学者になれる」と言ったそうですが、おや、これは、ひょっとすると、僕も名将に。うむ。

飯と乙女。

渋谷ユーロスペースにて「飯と乙女」を観る。

食を題材にした映画は、やっぱりいちばん観たいジャンル。食材そのものにスポットライトが当てられている作品より、「食事」という行為を通しての人間関係を表現したものに、より興味があります。誰かと食事を一緒にするっていうのは、とても密で、とてもエロティックですよね。

いきなりですが、本編のあとにスピンオフの短編があり、ウサギの料理を食べるカップルの話だったのですが、どうもみたことがあるエチケットのワインだなあと思ったら、出演していたのが、あの中田英寿もワイナリーを訪ねているカステッロ・ロミトリオのオーナー(息子)。オーナー自らなかなかキワモノな役を見事に演じきっていました。Coniglio in padellaを作っていたシェフはローマの有名シェフだそうです。どうりでウサギのさばき方が尋常じゃなかった。自分の専門的な分野を、映画やドラマでおろそかに演出されているのをみて「これはないわ」と興醒めしちゃうことってないですか。その逆で、そういうディティールがしっかりしてるとそれだけで嬉しくなるものです。すげえうまそうでした、ウサギ。

「食べものを食べてもらうことで、メシを食っていく」という仕事をしているので、この映画本編のテーマの「生きるために食うのか、食うために生きるのか」「食う(生きる)ためには、あるいは食わせていくためには、なにかを犠牲にしなければならない」といったことはすごく身近で。よく言う「とりあえず飲食業なら賄いあるし食うには困らない」というのと、「この仕事でメシを食っていけるのか」というのは別の意味なので。あ、「パンがなければブリオッシュを食べればいいのよ!」ていうのとも全然別の意味ですので。

上映後、ご縁があって監督さんとも少しお話させていただきました。ウサギもロミトリオもありませんが、今度メシでも食いにきてください。